「高熊山」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
(同じ利用者による、間の19版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Otheruses|現代の高熊山|その他|高熊山 (曖昧さ回避)}} | |||
* 上田喜三郎(王仁三郎の幼名)は明治31年(1898年)3月1日(旧暦2月9日)から一週間、高熊山の中腹にある岩窟で、霊的な修業を行った。霊界物語[[第1巻]] | [[ファイル:高熊山の岩窟で正座する出口王仁三郎.jpg|thumb|高熊山の岩窟で正座し鎮魂の姿勢を取る[[出口王仁三郎]](昭和10年10月、自伝映画撮影の際)]] | ||
[[ファイル:高熊山の岩窟1.jpg|thumb|高熊山の岩窟。平成30年(2018年)12月撮影。岩窟の大きさは、おそらく地盤沈下によって小さくなっている。昭和10年の写真と較べ高さが半分程度にまで低くなっている。]] | |||
'''高熊山'''(たかくまやま)は、[[出口王仁三郎]]が修業した山。京都府亀岡市曽我部町穴太にある。地図には「'''丁塚山'''」(ちょうづかやま)と表記されている。 | |||
== 概要 == | |||
* 標高は357メートル。山麓の標高が105メートル前後あるので、比高は250メートルくらい。 | |||
* 上田喜三郎(王仁三郎の幼名)は明治31年(1898年)3月1日(旧暦2月9日)から一週間、高熊山の中腹にある岩窟で、霊的な修業を行った。霊界物語[[第1巻]]の第1章~第4章はこの時の修業の様子が記されている。また第5章以降は、修業中に霊界探険をし、そこで目撃した出来事を書き著わしたものである。(→「[[高熊山修業]]」) | |||
* 高熊山は上古は[[高御座山]](たかみくらやま)と称し、後に高座(たかくら)、高倉と転訛し、そして高熊山になった。<ref name="rm0101">霊界物語{{rm|1|1|霊山修業}}</ref> | * 高熊山は上古は[[高御座山]](たかみくらやま)と称し、後に高座(たかくら)、高倉と転訛し、そして高熊山になった。<ref name="rm0101">霊界物語{{rm|1|1|霊山修業}}</ref> | ||
* 穴太の産土神社である[[小幡神社]](祭神・[[開化天皇]])は、現在は穴太の集落にあるが、もともとは高熊山の中にあった。<ref name="rm0101" /> | * 穴太の産土神社である[[小幡神社]](祭神・[[開化天皇]])は、現在は穴太の集落にあるが、もともとは高熊山の中にあった。<ref name="rm0101" /> | ||
* [[武烈天皇]](第25代天皇)が跡継ぎを定めようとしたとき「[[穴太の皇子]]」は高熊山に隠れてしまい、行方不明となったので、[[継体天皇]]に位を譲った。<ref name="rm0101" /> | * [[武烈天皇]](第25代天皇)が跡継ぎを定めようとしたとき「[[穴太の皇子]]」は高熊山に隠れてしまい、行方不明となったので、[[継体天皇]]に位を譲った。<ref name="rm0101" /> | ||
* 高熊山には古来から謎の歌が遺っている。「朝日照る、夕日輝く、高倉の、三ツ葉躑躅(つつじ)のその下に、黄金(こがね)の鶏(にわとり)小判千両 埋(い)けおいた」 この「[[三ツ葉躑躅]]」とは三つの御霊=[[瑞霊]]の意味であり、霊界物語[[第1巻]]前半の霊界探検の物語の中では、喜三郎は「三ツ葉様」と呼ばれている。<ref name="rm0101" /> | * 高熊山には古来から謎の歌が遺っている。「朝日照る、夕日輝く、高倉の、三ツ葉躑躅(つつじ)のその下に、黄金(こがね)の鶏(にわとり)小判千両 埋(い)けおいた」 この「[[三ツ葉躑躅]]」とは三つの御霊=[[瑞霊]]の意味であり、霊界物語[[第1巻]]前半の霊界探検の物語の中では、喜三郎は「三ツ葉様」と呼ばれている。<ref name="rm0101" /> | ||
*霊界物語[[第3巻]]に出てくる「[[霊鷲山]]」(りょうしゅうざん)は高熊山に相応する。<ref>{{rm|3|15}}~{{rm|3|18}}</ref> | * 霊界物語[[第3巻]]に出てくる「[[霊鷲山]]」(りょうしゅうざん)は高熊山に相応する。<ref>{{rm|3|15}}~{{rm|3|18}}</ref> | ||
* 『[[新月の光]]』によると、王仁三郎は桜島の噴火を全知して大正3年(1914年)1月7日、桜島の神霊を高熊山に奉迎した。五日後の1月12日に桜島が大噴火する(この「大正大噴火」では58名が亡くなる大災害となった)。<ref>『[[新月の光]]』0012「桜島の神霊を高倉山へ奉迎」</ref> <ref>[https://www.city.kagoshima.lg.jp/kikikanri/kazan/taisho_eruption.html 大正噴火による被害等] - 鹿児島市</ref> <ref>{{wp|桜島の大正大噴火}}</ref> | |||
== ギャラリー == | |||
<gallery> | |||
ファイル:高熊山の岩窟2.jpg| | |||
ファイル:高熊山で出口王仁三郎(大正時代).jpg| | |||
ファイル:高熊山で出口王仁三郎(大正9年).jpg| | |||
ファイル:高熊山参拝の風景(大正13年).jpg| | |||
ファイル:高熊山(油絵)昭和初期.jpg| | |||
</gallery> | |||
全ての写真を見るには→「[[:カテゴリ:高熊山]]」 | |||
== | == 関連項目 == | ||
* [[ガマ岩]](蟇岩) | * [[ガマ岩]](蟇岩) | ||
* [[高熊山に現れた霊石]] | * [[高熊山に現れた霊石]] | ||
* [[高熊山修業]] | |||
== 脚注 == | |||
<references/> | |||
[[Category: | {{デフォルトソート:たかくまやま}} | ||
[[Category:霊界物語の山| | [[Category:山]] | ||
[[Category:霊界物語の山]] | |||
[[Category:高熊山|*]] | |||
[[Category:亀岡]] | |||
[[Category:秀逸な記事]] |
2025年3月12日 (水) 23:55時点における最新版
この項目では、現代の高熊山について説明しています。その他については「高熊山 (曖昧さ回避)」をご覧ください。


高熊山(たかくまやま)は、出口王仁三郎が修業した山。京都府亀岡市曽我部町穴太にある。地図には「丁塚山」(ちょうづかやま)と表記されている。
概要
- 標高は357メートル。山麓の標高が105メートル前後あるので、比高は250メートルくらい。
- 上田喜三郎(王仁三郎の幼名)は明治31年(1898年)3月1日(旧暦2月9日)から一週間、高熊山の中腹にある岩窟で、霊的な修業を行った。霊界物語第1巻の第1章~第4章はこの時の修業の様子が記されている。また第5章以降は、修業中に霊界探険をし、そこで目撃した出来事を書き著わしたものである。(→「高熊山修業」)
- 高熊山は上古は高御座山(たかみくらやま)と称し、後に高座(たかくら)、高倉と転訛し、そして高熊山になった。[1]
- 穴太の産土神社である小幡神社(祭神・開化天皇)は、現在は穴太の集落にあるが、もともとは高熊山の中にあった。[1]
- 武烈天皇(第25代天皇)が跡継ぎを定めようとしたとき「穴太の皇子」は高熊山に隠れてしまい、行方不明となったので、継体天皇に位を譲った。[1]
- 高熊山には古来から謎の歌が遺っている。「朝日照る、夕日輝く、高倉の、三ツ葉躑躅(つつじ)のその下に、黄金(こがね)の鶏(にわとり)小判千両 埋(い)けおいた」 この「三ツ葉躑躅」とは三つの御霊=瑞霊の意味であり、霊界物語第1巻前半の霊界探検の物語の中では、喜三郎は「三ツ葉様」と呼ばれている。[1]
- 霊界物語第3巻に出てくる「霊鷲山」(りょうしゅうざん)は高熊山に相応する。[2]
- 『新月の光』によると、王仁三郎は桜島の噴火を全知して大正3年(1914年)1月7日、桜島の神霊を高熊山に奉迎した。五日後の1月12日に桜島が大噴火する(この「大正大噴火」では58名が亡くなる大災害となった)。[3] [4] [5]
ギャラリー
全ての写真を見るには→「カテゴリ:高熊山」