「大本」の版間の差分
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− | |天保7年12月16日(新暦1837年1月22日)|| | + | |天保7年12月16日(新暦1837年1月22日)||[[福知山]]で桐村直、生誕 |
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|安政2年2月3日(新暦1855年3月20日)||直(18歳)は[[豊助]](とよすけ)と結婚<ref>[[四方豊助]]は直より先に出口ユリの養子になっていた。</ref>。豊助は「政五郎」を襲名する。 | |安政2年2月3日(新暦1855年3月20日)||直(18歳)は[[豊助]](とよすけ)と結婚<ref>[[四方豊助]]は直より先に出口ユリの養子になっていた。</ref>。豊助は「政五郎」を襲名する。 |
2023年11月16日 (木) 03:07時点における版
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大本(おおもと)は、出口直と出口王仁三郎を二大教主とする宗教。
旧仮名遣いでは「おほもと」。
略年表
出口直と王仁三郎を軸として見た大本60年間の略史。(年齢は原則として満年齢)(明治5年12月2日までは旧暦。翌日改暦され新暦6年1月1日となる)
天保7年12月16日(新暦1837年1月22日) | 福知山で桐村直、生誕 |
嘉永6年(1853年) | 直(16歳)は綾部に移住し、叔母・出口ユリの養女となる。(時期は諸説あり→「出口直#最初の綾部移住の時期」) |
安政2年2月3日(新暦1855年3月20日) | 直(18歳)は豊助(とよすけ)と結婚[1]。豊助は「政五郎」を襲名する。 |
明治4年7月12日(新暦1871年8月27日) | 穴太で上田喜三郎、生誕 |
明治16年(1883年)2月3日(旧12月26日) | 出口澄子、生誕。 |
明治20年(1887年)3月1日(旧2月7日) | 出口直(50歳)の夫・政五郎が帰幽(60歳)。 |
明治25年(1892年)1月30日(旧1月1日) | 直(55歳)は霊夢を見る。 |
同年2月3日(旧1月5日)[2] | 直、帰神状態となる。 |
明治26年(1893年)4月~5月 | 4月21日、直は放火の嫌疑で警察署に留置される。翌日に嫌疑は晴れるが、発狂者として座敷牢に入れられる。その間、釘で柱に文字を書く(筆先の初まり)。5月30日、座敷牢から出される。 |
明治27年(1894年)11月12日(旧10月15日) | 直は大本の広前を初めて開く。大島景僕の離れ座敷(通称「別荘」)に艮の金神と金光大神を併祀。 |
明治30年(1897年)4月4日(旧3月3日) | 直(60歳)は綾部・裏町の梅原伊助の倉に広前を遷し、艮の金神を単独で奉斎する。 |
明治31年(1898年)3月1日(旧2月9日) | 喜三郎(26歳)、高熊山修業 |
同年10月8日(旧8月23日) | 綾部で出口直と上田喜三郎が初めて面会 |
明治32年(1899年)7月3日(旧5月26日) | 喜三郎(28歳)は綾部に移住し大本入りする |
明治33年(1900年)1月31日(旧1月1日) | 喜三郎(28歳)と澄子(16歳)が結婚 |
同年7月4日(旧6月8日) | 冠島開きの御神業。 |
同年8月2日(旧7月8日) | 沓島開きの御神業。 |
同年10月1日(旧閏8月8日) | 鞍馬山出修。その後、直は別荘(大島景僕の離れ座敷)に100日間籠もる。 |
同年11月1日(旧9月10日) | 広前を竜門館(大島景僕宅)に遷す。 |
明治34年(1901年)4月26日(旧3月8日) | 元伊勢水の御用。 |
同年7月1日(旧5月16日) | 出雲火の御用。 |
同年10月19日(旧9月8日)~25日 | 弥仙山岩戸籠もり。 |
同年10月28日(旧9月17日) | 直は別荘に100日間籠もる。 |
明治35年(1902年)3月7日(旧1月28日) | 王仁三郎と澄子の長女・あさの(出口直日)が生まれる。 |
明治36年(1903年)5月24日(旧4月28日) | 弥仙山岩戸開き。 |
明治37年(1904年)9月20日 | 喜三郎は(39歳)役場に改名届を出して「上田王仁三郎」になる |
明治38年(1905年)5月14日(旧4月10日)~25日 | 沓島籠もり。 |
明治43年(1910年)12月29日 | 王仁三郎(39歳)は出口家への養子手続きが終わり「出口王仁三郎」になる |
明治45年(1912年)4月24日(旧3月8日) | 伊勢内宮・外宮・香良洲神社へ参拝。 |
大正5年(1916年)6月25日(旧5月25日) | 「神島開き」 |
同年10月4日(旧9月8日) | 神島へ。翌5日(旧9月9日)王仁三郎がみろく様の霊であるという筆先が出る(見真実)。 |
大正6年(1917年)1月 | 機関誌『神霊界』誌上で『大本神諭』の発表を開始する |
大正7年(1918年)11月6日(旧10月3日) | 出口直、昇天(81歳) |
大正9年(1920年)9月 | 大正日日新聞社を買収 |
大正10年(1921年)2月12日(旧正月5日) | 第一次大本事件。王仁三郎(49歳)は投獄される。(大本事件) |
同年6月17日 | 王仁三郎は126日間の獄中生活を経て出獄 |
同年10月5日 | 第一次大本事件裁判で王仁三郎は懲役5年の判決を受ける。 |
同年10月18日 | 王仁三郎は霊界物語の著述を開始 |
大正11年~12年 | バハイ教や道院、普天教など世界の諸宗教と提携 |
大正13年(1924年)2月13日 | 王仁三郎(52歳)は綾部を発ってモンゴルへ(~11月1日)→「入蒙」 |
大正14年(1925年)5月20日 | 北京で世界宗教連合会設立 |
同年6月9日 | 人類愛善会設立 |
昭和2年(1927年)5月17日(旧4月17日) | 大正天皇崩御による大赦令によって第一次大本事件の裁判は免訴となる。 |
昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日) | みろく大祭(王仁三郎、満56歳7ヶ月) |
昭和7年(1932年)8月13日 | 大日本武道宣揚会設立(道主・植芝盛平) |
昭和8年(1933年)10月4日(旧8月15日) | 霊界物語『天祥地瑞』編の著述開始 |
昭和9年(1934年)7月22日 | 東京・九段の軍人会館で「昭和神聖会」設立 |
昭和10年(1935年)12月8日 | 第二次大本事件。王仁三郎(64歳)は投獄される。 |
昭和15年(1940年)2月29日 | 一審判決。王仁三郎は無期懲役。 |
昭和17年(1942年)7月31日 | 二審判決。王仁三郎は懲役5年。 |
同年8月7日(旧6月26日) | 王仁三郎(71歳)は6年8ヶ月ぶりに出獄 |
昭和19年(1944年)12月29日 | 王仁三郎(73歳)は耀盌を作り出す |
昭和20年(1945年)9月8日 | 大審院判決。上告棄却(有罪確定)。 |
同年10月17日 | 大赦令で大本事件は解消する(無罪)。 |
12月8日 | 綾部で第二次大本事件解決奉告祭を執行。 |
昭和21年(1946年)2月7日 | 大本を「愛善苑」として新発足 |
昭和23年(1948年)1月19日 | 王仁三郎(76歳5ヶ月)昇天。澄子が二代苑主となる。 |
昭和24年(1949年)10月29日 | 愛善苑を「大本愛善苑」に改称。 |
昭和27年(1952年)3月31日 | 出口澄子、昇天(69歳)。直日が三代教主となる。 |
同年4月1日 | 大本愛善苑を「大本」に改称。 |