「3月3日」の版間の差分
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* [[王仁三郎]]は'''昭和3年(1928年)3月3日'''(旧2月12日)に満56歳7ヶ月を迎え、みろく大祭を開き、弥勒菩薩として下生したことを宣言した。 →「[[みろく大祭]]」 | * [[王仁三郎]]は'''昭和3年(1928年)3月3日'''(旧2月12日)に満56歳7ヶ月を迎え、みろく大祭を開き、弥勒菩薩として下生したことを宣言した。 →「[[みろく大祭]]」 | ||
+ | * 昭和3年3月3日([[みろく大祭]]の当日)[[松村真澄]]が帰幽した。享年49歳。 | ||
+ | * 昭和33年(1958年)3月3日、[[西田元教]](王仁三郎の義弟)が帰幽した。享年85歳。 | ||
+ | * 平成3年(1991年)3月3日、[[坂田三郎]](株式会社[[いづとみづ]]初代社長)が帰幽した。享年85歳。 | ||
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* 霊界物語で[[松竹梅の三姉妹]]が[[聖地エルサレム]]の館を旅立った日が'''3月3日'''、[[ウヅの都]]の[[正鹿山津見]](松竹梅の父・[[桃上彦]])の館に到着したのが'''5月5日'''である。<ref>{{rm|9|9|鴛鴦の衾}}:「三月三日にヱルサレム 館を抜けて三人連れ(略)珍の都の主宰神 桃上彦の掌る 珍の館に着きにけり 五月の空の木下闇 五日は晴れむ常磐木の 五月五日の今日の宵」、[[珍山彦]]のセリフ「ヤア、これはこれは、目出度い事が重なれば重なるものだ。今日は五月五日、菖蒲の節句だ」</ref> <ref>{{rm|9|27|月光照梅}}:梅ケ香姫のセリフ「想ひ廻せば、時は弥生の三月三日、花の都と聞えたる聖地ヱルサレムを主従四人立出でて」</ref> | * 霊界物語で[[松竹梅の三姉妹]]が[[聖地エルサレム]]の館を旅立った日が'''3月3日'''、[[ウヅの都]]の[[正鹿山津見]](松竹梅の父・[[桃上彦]])の館に到着したのが'''5月5日'''である。<ref>{{rm|9|9|鴛鴦の衾}}:「三月三日にヱルサレム 館を抜けて三人連れ(略)珍の都の主宰神 桃上彦の掌る 珍の館に着きにけり 五月の空の木下闇 五日は晴れむ常磐木の 五月五日の今日の宵」、[[珍山彦]]のセリフ「ヤア、これはこれは、目出度い事が重なれば重なるものだ。今日は五月五日、菖蒲の節句だ」</ref> <ref>{{rm|9|27|月光照梅}}:梅ケ香姫のセリフ「想ひ廻せば、時は弥生の三月三日、花の都と聞えたる聖地ヱルサレムを主従四人立出でて」</ref> | ||
== 明治五十五年三月三日五月五日 == | == 明治五十五年三月三日五月五日 == | ||
− | 明治37年(1904年)旧7月12日の[[大本神諭]] | + | 明治37年(1904年)旧7月12日の[[大本神諭]]に「明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日である」という予言めいた文言がある<ref>「明治五十年を真中として、前後十年の間が世の立替の正念場であるぞよ。それまでに神の経綸が急けるから、何と申しても今度は止ては下さるなよ。明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ」〔{{os|35|明治37年旧7月12日}}〕</ref>。明治55年は大正11年(1922年)に当たる。そのため大正11年の3月3日や5月5日に何か大きな事件が起きるのだと信じる信者も多数いた<ref>{{rm09|3|0001|序文}}:「明治五十五年の三月三日五月五日といふ神の抽象的教示にたいして、五十五年は大正十一年に相当するから、今年は女子の御魂にたいして肉体的結構があるとか、大本の神の経綸について花々しきことが出現するかのやうに期待してをる審神者があるやうにきく」</ref>。谷口正治も大正11年の3月3日と5月5日が最後の審判の正念場だと信じていた<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c4213|谷口正治}}」</ref>。 |
王仁三郎はこの3月3日・5月5日は暦の上での日付ではないとして、[[言霊学]]により解釈し、「三月三日とは三ツの御魂なる月の大神の示顕が、天地人三体に輝きわたる日といふこと」であり、「あたかも暗黒の天地に、日月の東天を出でて万界を照らすがごとき瑞祥を、五月五日といふ」のだと教えている。<ref>{{rm09|3|0001|序文}}</ref> | 王仁三郎はこの3月3日・5月5日は暦の上での日付ではないとして、[[言霊学]]により解釈し、「三月三日とは三ツの御魂なる月の大神の示顕が、天地人三体に輝きわたる日といふこと」であり、「あたかも暗黒の天地に、日月の東天を出でて万界を照らすがごとき瑞祥を、五月五日といふ」のだと教えている。<ref>{{rm09|3|0001|序文}}</ref> | ||
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3月3日は、桃の節句・雛祭りの日である。女の子の節句ということと、「三」という数字から、変性女子の瑞の御魂(王仁三郎)に因縁のある日である。
現実の出来事
- 王仁三郎は昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日)に満56歳7ヶ月を迎え、みろく大祭を開き、弥勒菩薩として下生したことを宣言した。 →「みろく大祭」
- 昭和3年3月3日(みろく大祭の当日)松村真澄が帰幽した。享年49歳。
- 昭和33年(1958年)3月3日、西田元教(王仁三郎の義弟)が帰幽した。享年85歳。
- 平成3年(1991年)3月3日、坂田三郎(株式会社いづとみづ初代社長)が帰幽した。享年85歳。
霊界物語での出来事
明治五十五年三月三日五月五日
明治37年(1904年)旧7月12日の大本神諭に「明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日である」という予言めいた文言がある[3]。明治55年は大正11年(1922年)に当たる。そのため大正11年の3月3日や5月5日に何か大きな事件が起きるのだと信じる信者も多数いた[4]。谷口正治も大正11年の3月3日と5月5日が最後の審判の正念場だと信じていた[5]。
王仁三郎はこの3月3日・5月5日は暦の上での日付ではないとして、言霊学により解釈し、「三月三日とは三ツの御魂なる月の大神の示顕が、天地人三体に輝きわたる日といふこと」であり、「あたかも暗黒の天地に、日月の東天を出でて万界を照らすがごとき瑞祥を、五月五日といふ」のだと教えている。[6]
王仁三郎はまた、霊界物語の口述を大正10年10月18日に開始し、翌11年旧3月3日までに567章(五六七の神に因む数字)を終え、旧5月5日までに712章(生誕日の7月12日に因む数字)を終えたことも神界の経綸であると述べている。[7]
関連項目
外部リンク
脚注
- ↑ 第9巻第9章「鴛鴦の衾」#:「三月三日にヱルサレム 館を抜けて三人連れ(略)珍の都の主宰神 桃上彦の掌る 珍の館に着きにけり 五月の空の木下闇 五日は晴れむ常磐木の 五月五日の今日の宵」、珍山彦のセリフ「ヤア、これはこれは、目出度い事が重なれば重なるものだ。今日は五月五日、菖蒲の節句だ」
- ↑ 第9巻第27章「月光照梅」#:梅ケ香姫のセリフ「想ひ廻せば、時は弥生の三月三日、花の都と聞えたる聖地ヱルサレムを主従四人立出でて」
- ↑ 「明治五十年を真中として、前後十年の間が世の立替の正念場であるぞよ。それまでに神の経綸が急けるから、何と申しても今度は止ては下さるなよ。明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ」〔大本神諭 明治37年旧7月12日#〕
- ↑ 第3巻序文#:「明治五十五年の三月三日五月五日といふ神の抽象的教示にたいして、五十五年は大正十一年に相当するから、今年は女子の御魂にたいして肉体的結構があるとか、大本の神の経綸について花々しきことが出現するかのやうに期待してをる審神者があるやうにきく」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「谷口正治#」
- ↑ 第3巻序文#
- ↑ 第22巻総説#