「西田元教」の版間の差分

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[[泉田瑞顕]]著『[[出口聖地と一厘の仕組]]』によると、泉田は昭和56年(1981年)5月21日、[[中矢田]]で<ref>泉田は前日の「いづとみづの会」の会合に出席していた。</ref>森恵昭に出会い、西田元教の話を聞いた。すでに泉田は昭和28年(1953年)6月19日に霊夢によって、[[八重野]](宇知麿の妻)宅にその玉が保管されていることを知っており、森の話は霊夢と一致していた。その霊夢によると、二個の玉は大正5年(1916年)に王仁三郎が[[神島]]で見つけた「金剛不壊の宝珠」と「紫の玉」である(霊界物語に登場する「[[三つの玉]]」を参照)。
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西田は大正5年5月の[[神島開き]]の前、約1ヶ月間、王仁三郎の内命によって高砂に滞在し、色々な準備をしていた。<ref>『出口聖地と一厘の仕組』p.9</ref>
 
西田は大正5年5月の[[神島開き]]の前、約1ヶ月間、王仁三郎の内命によって高砂に滞在し、色々な準備をしていた。<ref>『出口聖地と一厘の仕組』p.9</ref>

2023年11月6日 (月) 10:16時点における版

西田元教(にしだげんきょう、1872~1958年)は、大本信徒。出口王仁三郎の義弟(妹・雪子の夫)。旧名・森元吉。本名・西田元吉。『王仁文庫』では「元治郞」という名で記されている[1]

西田は大本の草創期に王仁三郎に従い宣教に尽力した。また、ある時に大本を追放され、王仁三郎の密命で二個の玉を預かり保護するという御用を行った。

略歴

明治5年(1872年)8月1日、和歌山県日高郡上南部村(かみみなべむら)(現・みなべ町の南東部)[2]で生まれる。森為蔵(森為七)[3]・ヒサノ夫婦の次男。

薭田野村奥条(現・亀岡市薭田野町奥条。湯の花温泉の北側の地域)の鍛冶職人・西田三蔵に弟子入りする。西田三蔵には子が無く、その死後、妻イシは元吉を養子にした(明治31年3月13日入籍)。イシは上田吉松(王仁三郎の父)の妹である(先代・佐野清六の娘)。イシは兄・吉松の長女・雪子(王仁三郎の妹。イシの姪)を嫁に望んだ。[4]

明治31年(1898年)夏、西田元吉と上田雪子は結婚する。同32年春、久兵衛池の脇に家を建て移転した。[5]

明治33年(1900年)8月25日、西田元吉は熱病で危篤となる。電報によって綾部から王仁三郎が穴太へ駆けつけ、神前で祈願すると、商売敵から呪い釘を打たれていることが分かった。その釘を抜き取ると熱が冷め、二ヶ月ほど で全快した。これ以後、西田は信仰の道に入り、王仁三郎と共に大本の宣教に従事することとなる。[6]

明治35年(1902年)頃、西田元吉は王仁三郎に命じられ、北桑田・船井地方の宣教にあたっていた。また、大阪市谷町九丁目に住んでいた叔父で鍛冶商[7]松本留吉方に滞在して、大阪での宣教にも従事した。(王仁三郎が大阪宣教を行ったのはこの後である)[8]

明治37年(1904年)10月、西田元吉は王仁三郎に伴い宇津へ宣教に行った際、王仁三郎から「元教」という名を与えられた(このとき宇津に住む小西庄太郎は「松元」という名を与えられた)。[9]

明治44年(1911年)5月5日、大日本修斎会の「正二等修斎」に任命される。[10]

大正15年(1926年)5月5日、宣伝使試補に任命される。[11]

昭和33年(1958年)3月3日、大阪で帰幽。享年85歳。

和歌山県みなべ町徳蔵の田中神社境内に「西田元教翁出生之地」の石碑がある。

大本追放

西田はある時(時期は諸説あり。後述)王仁三郎によって大本から追放された。次は西田の親戚の森恵昭[12]による回顧談「カミにも裏表あり」(#参考文献参照)に記された西田の発言である。

(略)誰がどう言おうとも聖師一筋、神業一途で頑張ったのや。そりゃ並の神業やない、二人だけ[13]の秘密のことも、どれだけあったか知らん。(略)そのワシが罪もないのに聖師に裁判にかけられたり、『西田は天の賊やから西田を見たら殺して呉れ』とまで追いつめられた。それを真に受けた井上や桜井達[14]は子分に手配して本気でワシを殺す計画まで立てよった。もう、いよいよ殺されると観念して大本を出たんや、仕方のないこととは言え、思へば聖師の妹や!その可愛い妻を残して行く当てもない夜逃げや!(略)やっぱり隠れ家は大阪しかなかったのや(略)お伊勢はん信仰に見せかけの『神勇会』を作って食いつなぎをしていたんや(略)そして大本色が抜けたと思っていたところへ…ヒョッコリ戸障子を叩く者が現われたんや、何とそれがワシを追い出した張本人の兄貴(聖師)だったんや!
出典:森恵昭「カミにも裏表あり」

王仁三郎はこの時、西田に二個の玉を玉を預けた。次は「カミにも裏表あり」に記された王仁三郎の発言である(ただしこれらの発言は西田から森が伝え聞いた記憶であり、実際にそのように話したとは限らない)。

(略)やがて日本も、もう二へん立替えをやらんならん。だけどなあ、お前もワシも人間に生まれた身や、限りのある肉体や!だから万古変わらぬ世界立替えの神力に繋がる証拠の品が要るのや。お前も一つは見たことがあるやろ、まだ見せたことのない宝は、今ここへ持って来た、これや。これはワシも手放さず側へ持っていたいが、これからの大本は次から次へと魔の手が伸びて来る。役員じゃ、幹部じゃ言うて威張ったところで、金神様の代わりは出来ん、屁の突っ張りにもならん奴らばかりや。だから秘密を明かす人間はお前しかおらんのや、西田を見たら殺してくれと頼んだのは、この秘密を守るための手段や。この神界の秘密のためとは言え、お前や妹ゆきにもすまんことやけど、よう不足に思わんと朝夕神様に仕えてくれて、神様も今日の日を非常に喜んでくれているが、万事一寸の狂いもなく立替え立直しの神業の出来るのは、お前あってのワシや。見込んだりや出口王仁三郎!見込まれたりや西田元教、申すまでもなく他言はまかりならんど!(略)この○○は時節が来ればドエライ働きをする大切なものだが、天界からのお手伝いがない限り、大本の中でこれを使える人間は一人もおらんのや。例えこの王仁が再びお前を呼ぶようなことがあっても、天界のお許しのない限りは、ワシの使いと名乗る者が来ても何も知らぬで通すやうにしてくれ、肉体的には今夜がお前との最後の別れと承知してくれ(略)
出典:森恵昭「カミにも裏表あり」

西田はこの王仁三郎の命令を忠実に守り、王仁三郎危篤(昭和23年1月)の際にも、妻・雪の葬儀(昭和27年6月)の際にも腰を上げず亀岡に行かなかった。

昭和32年(1957年)2月、西田のもとに王仁三郎の神霊が現れ、時が来たと命じられ、二個の玉を大本に返すことになった。同年4月24日、大本に行き、三代教主出口直日に二個の玉を渡す。直日はそれを宇知麿に渡した。

翌33年3月3日、西田は帰幽する。

西田は王仁三郎から「天の賊」と罵られ大本を追放されたが、実はその裏で、二個の玉を保管するという秘密の神業をさせられていたことになる。

出口禮子の説

出口禮子はこの玉は王仁三郎が入蒙した際に、蒙古で入手したものではないかと推測している。次は出口禮子が平成4年(1992年)に機関誌上で発表した歌(#参考文献参照)である。(全部で23首の歌が掲載されているが一部の歌は省いた。フリガナは《》内に入れた)

奇しきかも西田元教の生涯はただ神のため忍びて仕うる

「天の賊、殺せ」と義兄《あに》(聖師)にののしられおゆきも捨てて大本去りぬ(おゆき妻聖師妹)

かくれ住む元教のもとただ一人義兄しのびきて宝あずくる(大正十三年七月十三日、大阪千林)

この宝命かけて守れよとそのため義兄は吾《あ》がを追いしか

ものすごき感激こめて語らるる声は何処ぞ聞えずなりぬ

もう一度宝の由来をとせがめども「天の言葉に二言はなし」と

宝受くその夜は聖師蒙古より帰りて大阪の拘置所のはずなる

時来ぬと義兄の告(夢)げしは三十三年目よ聖師も二代もおゆきも世に無く(昭和三十二年春)

吾《あ》がこそはかくれて血を吐くほととぎす病む身清めて大本もうでぬ(三十二年四月二十四日)

みがきあげし小函に納める宝もの森恵昭氏供してゆきぬ

宝函三代さまに納めしと語れる森氏の瞳かがやく

蒙古より持ち帰られしかかの地にて密かに会わる王清泰思ほゆ
出典:出口禮子の歌(#参考文献参照)

この出口禮子の歌によると、王仁三郎が西田に玉を預けたのは大正13年(1924年)7月13日である。しかし大正15年に西田は宣伝使試補に任命されているため、まだ大本を追放されていない。また、この時期、王仁三郎はまだ蒙古にいた。6月21日にパインタラで捕まった王仁三郎一行は、7月6日には鄭家屯から奉天の日本総領事館に送られ、7月21日に奉天から帰国の途に就く。したがって7月13日に大阪の西田に玉を預けることは不可能である。それに、「大阪の拘置所のはず」と歌にあるが、帰国した王仁三郎が大阪で収監されたのは7月27日である。いろいろと疑義がある歌だが、この歌は森恵昭が出口禮子に伝えたことが元になっているので、どちらかの記憶違いか誤記だと考えられる(あるいは王仁三郎が霊体で現れて西田に玉を預けたということか?)。

泉田瑞顕の説

泉田瑞顕著『出口聖地と一厘の仕組』(#参考文献参照)によると、泉田は昭和56年(1981年)5月21日、中矢田[15]森恵昭に出会い、西田元教の話を聞いた。すでに泉田は昭和28年(1953年)6月19日に霊夢によって、八重野(宇知麿の妻)宅にその玉が保管されていることを知っており、森の話は霊夢と一致していた。その霊夢によると、二個の玉は大正5年(1916年)に王仁三郎が神島で見つけた「金剛不壊の宝珠」と「紫の玉」である(霊界物語に登場する「三つの玉」を参照)。

西田は大正5年5月の神島開きの前、約1ヶ月間、王仁三郎の内命によって高砂に滞在し、色々な準備をしていた。[16]

王仁三郎が西田に玉を預けた時期は、第一次大本事件で収監された王仁三郎が責付出獄した大正10年6月17日の直後であると泉田は書いている[17]。また、西田が大本を追放され、一般信者の目から行方不明となった時期は、大正13年末から14年の初め頃だと泉田は書いている。つまり泉田によると、玉を預かってから大本を追放されたということになる。

しかし機関誌『真如の光』昭和3年(1928年)11月25日号p.80の秋季大祭の直会係として「西田元教」の名の記載があるため、少なくともこの時まで西田は大本を追放されていない[18]

追放時期

森恵昭「カミにも裏表あり」によると西田は昭和32年(1957年)に玉を大本に返還する際に「聖師から預かって三十年ぶりに拝まして貰うんや」と発言している。ちょうど30年前は昭和2年(1927年)である。仮に昭和4年(1929年)に追放され、数ヶ月後に玉を預かったとするなら28年なので、四捨五入して30年ぶりだと言える。出口禮子は大正13年(1924年)に玉を預かったと主張しているが、それだと33年前になり、これも四捨五入すれば30年ぶりだと言える。泉田瑞顕は大正10年(1921年)に玉を預かったと主張しているが、それだと36年前になり、30年ぶりという表現は少々違和感がある。

また、森恵昭と出口禮子の主張だと、西田は大本を追放された後、王仁三郎から玉を預かったことになっている。しかし泉田瑞顕は、玉を預かってから追放されたと主張している。

出口禮子も泉田瑞顕も情報源は森恵昭だが、大本追放の時期や玉を預かった時期、またその順序(追放が先か、玉を預かったのが先か)について、各自異なる主張をしている。それはそもそも森自身が西田から伝え聞いたエピソードであるため、よく憶えていないのだと考えられる。また各自が自分勝手な解釈や推測をして、それと客観的事実とが混同してしまっているため、このような相違が生じるのだと考えられる。

森は玉を大本に返しに行く西田に同伴したが、それについては三者の主張は一致している。それは森自身の体験なので記憶がはっきりしていると考えられる。『出口聖地と一厘の仕組』にはその時の模様が詳しく記されている。

参考文献

  • 森恵昭「カミにも裏表あり」『愛善世界』平成20年(2008年)4月号、p72-82
  • 神の国』平成4年(1992年)4月号「歌の瑞垣」、p34掲載の出口禮子の歌
  • 泉田瑞顕出口聖地と一厘の仕組』昭和57年(1982年)6月、瑞泉郷建設運動本部、pp.1-20「神宝秘蔵とその再現」
  • 上南部誌編纂委員会・編『上南部誌』昭和38年(1963年)、南部川村、p.596、NDLDL蔵書
  • 『御坊市史 第2巻(通史編 2)』昭和56年(1981年)、御坊市、p.903、NDLDL蔵書

主な著作

  • 「霊光録」『神霊界』大正10年(1921年)5月号及び6月号の二回連載。

外部リンク

脚注

  1. 『王仁文庫 第六篇 玉の礎』19~29#
  2. 昭和29年(1954年)に上南部村・高城村・清川村が合併して「南部川村」が発足。平成16年(2004年)に南部川村と南部町が合併して「みなべ町」が発足した。
  3. 『上南部誌』p.596では「森為蔵」(ただし田中神社の西田元教碑裏面の文面による)、みいづ舎版『大地の母 第五巻』「去る女たち」p.252では「森為七」。
  4. みいづ舎版『大地の母 第五巻』「去る女たち」p.252
  5. みいづ舎版『大地の母 第七巻』「呪い釘」p.4
  6. 霊界物語第38巻第17章旅装#第38巻第24章呪の釘#、『大本七十年史 上巻』「会長排斥と内部の対立#」p.214
  7. 「鍛冶商」は『百千鳥』の歌による。
  8. 大本七十年史 上巻』「著作と布教#
  9. みいづ舎版『大地の母 第八巻』「北桑田宣教#」p261
  10. 『大本七十年史 上巻』「明治の晩期#」p.319
  11. 真如の光』大正15年(1926年)5月15日号、p.34
  12. 出口聖地と一厘の仕組』p.10によると森恵昭の大本入信は昭和26年春。
  13. 王仁三郎と西田の二人
  14. 井上留五郎と桜井重雄か?
  15. 泉田は前日の「いづとみづの会」の会合に出席していた。
  16. 『出口聖地と一厘の仕組』p.9
  17. 『出口聖地と一厘の仕組』p.9
  18. 真如の光』誌には祭典の直会係として時々「西田元教」の名が書いてある。確認したのは次の通り。大正15年(1926年)11月15日号p.40秋季大祭、昭和2年(1927年)2月15日号p.46節分祭、同年4月15日号p.41春季大祭、昭和3年(1928年)2月15日号p.128節分大祭、同年11月25日号p.80秋季大祭。