十ケ月暦
十ケ月暦(じゅっかげつれき)とは、出口王仁三郎が提唱する改暦案。みろくの世の暦。
改暦問題
十ケ月暦の全容は玉鏡「十ケ月暦」#に記されてある。初出は機関誌『神の国』昭和6年(1931年)9月号(9月10日発行)なので、王仁三郎が8月か9月上旬に発言したのだと思われる。王仁三郎のこの発言の背景には、この時期、国際連盟において改暦案が議論されていたことがある。
現行のグレゴリオ暦は天体の運行とは無関係に(関係しているのは1年の長さだけ)人為的に作られたものであるため、もっと合理的・機能的な暦に変えようという国際的な動きは19世紀末から起きていた。
グレゴリオ暦の欠点は次の4つにまとめられる。
- (1) 年始の位置が無意味である。(元日が天体の位置と全く無関係。たとえば太陽暦であれば元日は冬至や立春に設定されるのが合理的)
- (2) 1年の長さが不完全である。(4年に1回、閏年を入れる必要がある。つまり4年ごとに1日増やさなくてはいけない)
- (3) 各月の長さが不均等である。(28日から31日まで4種類あり、四半期の日数が1-3月が90日、4-6月が91日、7-9月と10-12月が92日となる。経済活動や各種統計において不便)
- (4) 暦日と週日の関係が一定でない。(毎月のx日が何曜日なのか決まっていない。またx月x日が何曜日になるのか年によって異なる)
昭和5年(1930年)国際連盟は次の3種の改暦案を提起した。
- 【第一案】 現行暦を基礎とし、毎月の日数をなるべく均一にする。(8月から1日を2月に移すことで、1-3月を91日とし、また半期の日数を前半期182日、後半期183日とする)
- 【第二案】 暦日と週日との関係を固定するため、年に1日か2日の週外日を設ける。月数は従来通り12とする。(四半期ごとに30日の月を2ヶ月、31日の月を1ヶ月とする。平年は余日1日を加え、閏年には更に1日の余日を加える。この余日は週日外とする。これによって毎年いつでもx月x日はx曜日と、暦日と週日が固定化され、カレンダーが毎年同じ「恒久暦」となる)
- 【第三案】 第二案と同じく週外の日を設け、1ヶ月を4週とし、1年を13ヶ月とする。(各月を4週=28日とする、つまり1年=364日となる。平年は余日を1日、閏年には更に余日を1日加える。この余日は週日外とする。この案も「恒久暦」である)
王仁三郎が「十ケ月暦」で言及している〈来る十月(昭和六年)ゼネバ(注・ジュネーブ)に於て開催される国際連盟に提出すべき改暦案問題〉とは、おそらく昭和6年(1931年)10月12日から24日までジュネーブの国際連盟で開催された第四回交通総会における議題だと思われる[1]。
結局、各国の意見はまとまらず、そのうち国際連盟は弱体化し第二次世界大戦が始まり、改暦問題はうやむやになった。
【参考文献】
- 国際連盟事務局東京支局「国際連盟の改暦問題」、官報 昭和6年(1931年)8月26日、3頁、NDLDL蔵書 PID:2957866/1/26
- 国際連盟事務局東京支局 編『改暦問題』昭和6年(1931年)9月、国際資料協会、NDLDL蔵書 PID:1210948
- 『国際知識』昭和7年(1932年)11月号、日本国際協会、112頁「第四回交通総会」、NDLDL蔵書 PID:10985862/1/60
- 能田忠亮『暦』昭和41年(1966年)、至文堂
- 渡邊敏夫『暦入門』平成6年(1994年)、雄山閣出版
概要
玉鏡「十ケ月暦」#に書かれていることをまとめると、「十ケ月暦」は次のようなものになる。
- 1年を10ヶ月とする。
- 1ヶ月を35日として、1週7日×5週間とする。
- 36日目は週に加えず祭日とする。
- 隔月(偶数月[2])で37日目を設け、言論自由の「閑日(かんじつ)」とする。
- 4年に1回、閏年を設け、閏日(じゅんじつ)は年末に置く。
- 立春を元日とする。(節分が大晦日になる)
- 1月の祭日を第1祭日、2月の祭日を第2祭日…と呼ぶ。閑日も順に第1閑日、第2閑日…と呼ぶ。
王仁三郎は「十ケ月暦」の中で、次のようなことも述べている。
- 明治31年(1898年)にすでにこの十ケ月暦の大意を発表しておいた。
- 国際連盟では三つの改暦案のうち第三案の十三ヶ月案が採用されるであろう。世界は一度はその暦法を使うことになるが、しかし長くは続かず、やがて、神示による自分の案(十ケ月暦)が採用されるはずである。
問題点
十ケ月暦は恒久暦であり、グレゴリオ暦の4つの欠点が全て解決されている。しかし1年を10ヶ月にするため、四半期を計算するのに不便である。
立春を1月1日にするということは、立秋は6月1日となる。また、立夏は3月半ば(18日頃?)となり、立冬は8月半ば(18日頃?)となる。夏至は4月下旬(34日頃?)、冬至は9月下旬(34日頃?)となる。天保暦からグレゴリオ暦への改暦で起きた問題と同様、月と季節感が現在とは全く異ることになる。
反響
昭和6年(1931年)9月の王仁三郎の日記『更生日記 九の巻』に、王仁三郎が発表した十ケ月暦について世間の反響が採録されており、それを報道した新聞記事が転載されている。[3]
9月5日に中外日報社(京都)主催により大勢の宗教関係者が招かれて暦法改正座談会が開かれた。記事の見出しに〈改暦案に対する外務当局の怠慢を攻撃し大勢、尚早論に傾く〉と書かれてあり、国際連盟の改暦案に否定的な集まりであった。この座談会に出席した出口宇知麿は大本には独自の改暦案があると発言した。〔中外日報9月8日報道、『更生日記 九の巻』71頁、NDLDL蔵書 PID:1137614/1/49〕
9月9日、丹波毎日新聞(綾部)は王仁三郎の十ケ月暦を具体的に紹介し、〈該案は人類愛善会欧羅巴(注・ヨーロッパ)本部を通じて欧米各国の新聞紙上に発表しセンセーシヨンを捲き起してゐる〉〈因に出口氏は本案は神示の暦法として国際的に統一さるるものとの固き自信を有してゐる〉と報道している。〔丹波毎日新聞9月9日報道、『更生日記 九の巻』75頁、NDLDL蔵書 PID:1137614/1/52〕
9月10日、北国夕刊新聞(北陸)、鹿児島新聞、丹州時報(舞鶴)でも王仁三郎の十ケ月暦が報道されたようである。〔『更生日記 九の巻』81頁、NDLDL蔵書 PID:1137614/1/55〕
9月11日、大正日日新聞(この当時はすでに大本から離れていた)、大阪経済新聞で十ケ月暦が報道。〔『更生日記 九の巻』83頁、NDLDL蔵書 PID:1137614/1/56、同89頁、NDLDL蔵書 PID:1137614/1/59〕
9月13日、中外日報は十ケ月暦の内容を報道(9月8日の報道では内容まで報道していなかった)。
しかしその後は11月15日に因伯時事評論が十ケ月暦を短く紹介しているだけで、大きな話題にはならなかったようである。(『更生日記』『壬申日記』に転載されている新聞記事に限る)
みろくの世の暦法
王仁三郎は、十ケ月暦がみろくの世の暦法だと教えている。[4]
その一方で、「恒天暦」がみろくの世の暦法だとも教えている。[5]
しかし十ケ月暦と恒天暦は異なるものである。 →「恒天暦」
脚注
- ↑ 「移動祭日の固定及びグレゴリオ暦簡易化の経済的及び社会的見地に基づく便宜得失の審議」のことではないかと思われる。『改暦問題』52~53頁・33頁参照NDLDL蔵書 PID:1210948/1/32
- ↑ 『更生日記 九の巻』76頁:〈偶数の月には更に祭日の後即ち卅七日目を閑日とす〉NDLDL蔵書 PID:1137614/1/53
- ↑ 『神の国』昭和6年(1931年)10月号、94頁「聖都消息」にそれに関する記事がある。〈曩に国際連盟改暦委員会提唱の三種の改暦案に就て新聞紙上を賑はして居ました。去る五日催された京都中外日報主催の改暦座談会に大本からは宇知麿様が出席、聖師案改暦十ヶ月説を発表されました。識者の注目を引くところ非常にあつたと見えて、其後各地の新聞に大本の改暦案として掲載されました。この案の詳細は前号神の国「玉鏡」に示されてあります。〉
- ↑ 『新月の光』0549「恒天暦(みろくの世の暦)」:〈王仁の考えではみろくの世になれば、一月三十五日とし三十六日目は三六だから祭日とし(以下省略)〉
- ↑ 『新月の光』0755「みろくの世の暦法」