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籠神社

12 バイト除去, 2024年7月26日 (金)
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* 主祭神:彦火明命(ひこほあかりのみこと) 〈別名を天照国照彦火明命ともいい天孫邇邇藝命の兄弟神。天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神様〉<ref name="site_yuisyo">公式サイトの「[https://www.motoise.jp/about/about01/ 御祭神・御由緒]」(2024/7/26閲覧)</ref> <ref>彦火明命(天火明命)は、古事記ではオシホミミの子であり、ニニギの兄である。日本書紀本文では、ニニギの子である。</ref>
** 養老元年(西暦717年)以前は、彦火々出見命が主祭神だった。<ref>『元伊勢籠神社御由緒略記』1頁による。同略記では彦火々出見命は〈彦火明命の別名とも伝えられる〉と記されている。だが記紀では彦火々出見命(ホオリ、山幸彦)と彦火明命は別神である。</ref>
** 戦前の文献には、主祭神を「|天水分神《あめのみくまりのかみ》」とし、社名「籠」を「こもり」と読ませているものが少なくない戦前の文献には、主祭神を「天水分神《あめのみくまりのかみ》」とし、社名「籠」を「こもり」と読ませているものが少なくない<ref>【例】『官国幣社便覧』明治26年(1893年){{ndldl|815227/1/59}} / 『全国神社祭神銘鑑』大正8年(1919年){{ndldl|963133/1/37}} / 『神社参拝之栞 天の巻』昭和2年(1927年){{ndldl|1102212/1/48}} / 『大日本神社志 3』昭和8年(1933年){{ndldl|1264534/1/23}} / 『全国官国幣社写真帖』昭和12年(1937年){{ndldl|1686202/1/291}}</ref>。同神は現在は相殿に祭られている。
* 延喜式内社(名神大社)。丹後国一宮。国幣中社<ref>延喜式神名帳では山陰道8ヶ国唯一の官幣大社だった。昇格運動が行われ昭和20年(1945年)3月25日の第86回帝国議会で、満場一致で官幣大社昇格が可決された。しかし敗戦によって実現しなかった。『元伊勢籠神社御由緒略記』4頁</ref>。
〔公式サイトの「御祭神・御由緒」及び『元伊勢籠神社御由緒略記』を参考にして作成した〕
神代の昔に、真名井原(現在「真名井神社」がある場所)に豊受大神を祭る「|匏宮《よさのみや》」があった。神代の昔に、真名井原(現在「真名井神社」がある場所)に豊受大神を祭る「匏宮《よさのみや》」があった。
第10代崇神天皇39年3月3日に、天照大神が大和の笠縫邑からこの地に遷り、天照大神と豊受大神を「|吉佐宮《よさのみや》」という宮号で4年間、一緒に祭った。第10代崇神天皇39年3月3日に、天照大神が大和の笠縫邑からこの地に遷り、天照大神と豊受大神を「吉佐宮《よさのみや》」という宮号で4年間、一緒に祭った。<ref>日本書紀によると崇神天皇6年に天照大神と倭大国魂の二柱が宮中の外へ祭られるようになり、天照大神は笠縫邑に祭られた。</ref> <ref>倭姫命世記によると崇神天皇39年に「吉佐宮」に4年間祭った。『国史大系 第7巻』明治31年(1898年)、経済雑誌社、「倭姫命世記」482頁、{{ndldl|991097/1/255}}</ref>
現在の地名の「与謝郡」や「与謝の海」の「よさ」は、この宮号(匏宮、吉佐宮)に由来している。
天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、豊受大神は第21代雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢に遷った。
両大神が伊勢に遷宮した後、養老3年(西暦719年)に当社の本宮を現在地へ遷し、社名を「|籠宮《このみや》」に改め、天孫・彦火明命を主祭神として祭った。両大神が伊勢に遷宮した後、養老3年(西暦719年)に当社の本宮を現在地へ遷し、社名を「籠宮《このみや》」に改め、天孫・彦火明命を主祭神として祭った。
「籠宮」の由来は〈彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、海神の宮(これを龍宮とか、常世とも呼びます)に行かれたとの故事〉<ref name="site_yuisyo" />による。

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