熊野新宮神社
祭神
略歴
神社の歴史は古文書や伝承によると次のようになる〔#参考文献〕。
鎌倉時代初期の治承年間(1177~1181年)に、丹波の知行国主だった平重盛(1138~1179年)[2]が、綾部を巡遊した時に、由良川に臨む並松の佳景が熊野(平氏は熊野権現を崇敬していた)に似ているので[3]、三熊野(熊野三社)をこの地に勧請し、「不時の詣」つまり不測の時に熊野まで行かなくても熊野権現に参拝できるようにした。
三熊野の一つは本宮山南麓にある那智山 正暦寺(なちさん しょうれきじ)である[4])。
他の二つは本宮と新宮である。新宮は本宮山の北麓(あるいは東麓)に、本宮は東麓にあった。[5]
本宮山の中腹の東南の所に広場があり、そこに熊野神社を祭っていた──という説もある[6]。
九鬼隆季(くき たかすえ。綾部初代藩主)の時代[7]、寛文12年(1672年)秋に新宮を現在地(ただし昭和30年代に鎮座地が少し移動した)に遷し、藩主の援助を受けて社殿を新築し、本宮の御神体も同地に遷した。
元禄11年(1698年)に紀州・熊野新宮大社から分霊を勧請し、「熊野新宮神社」と改称し、同年6月28日に遷座祭が行われた──という説もある。[8]
明治15年(1882年)に社殿を改築。この時、出口政五郎(出口直の夫)も大工の一人として改築工事に参加した[9]。
明治37年(1904年)、兵庫県の西宮神社(えびす神社)の分霊を勧請し、熊野新宮神社に祭られる(末社)。
大正6年(1917年)皇后が綾部に行啓したことをきっかけに、宮中の紅葉山御養蚕所[10]に祭られている蚕祖神の分霊(大宜津比売神)を勧請し、熊野新宮神社に合祀される(相殿)。
昭和30年代に市民センター建設の計画が進み、熊野新宮神社に移転してもらい、その跡地に市民センターが造られることになる。神社は西側に隣接する「波多野記念館」(グンゼ創業者の波多野鶴吉を顕彰する綾部市営施設。大正9年建設で老朽化していたため取り壊し)の跡地と敷地を交換することになり、そちらに社殿を建てて遷座した。
市民センターは昭和34年(1959年)起工、昭和38年7月開館[11]。現在この市民センターは存在しない。令和元年(2019年)10月に若竹町に新しい市民センター「あやべ・日東精工アリーナ」がオープンした後、並松町の旧・市民センターの建物は解体された。
熊野新宮神社は昭和43年(1968年)4月8日、波多野記念館跡に社殿が竣工し遷座した[12]。市民センター起工の昭和34年から社殿が完成する43年までは、神社の御神体は大本のみろく殿に仮に遷座していた[13]。後に京都府蚕糸連合会の建物も神社が入手し熊野新宮会館(氏子の参集所)となった[14]。
遷座する以前の熊野新宮神社の境内は、綾部高校敷地の東南部あたりまで広がっていた。
王仁三郎によると──太古に素盞嗚尊が出雲から出て来た時に、本宮山の上に母神・伊邪那美尊を祀り、これを熊野神社と名づけられた。その後、素盞嗚尊は紀州方面へ行き、紀州にも本宮・新宮・那智の熊野三社を祀った。本宮山の南側にある谷は、元はずっと高く続いていて、水が滝のように落ちていた。それを「那智の滝」と呼んだ。[15]
大本との関わり
本宮村小字新宮坪の内に居住していた出口家は熊野新宮神社の氏子である。
総産土・開祖お手植えの白藤
大本神諭に「明治二十五年に、初発に艮の金神が、出口直を氏神様へ披露して下されと申して、直を連れ参りた折、三日目に世に御披露が在りたから(略)」〔大本神諭 明治37年旧1月11日#〕とある。つまり艮の金神が出口直に懸かり三千世界の立替立直しの大神業を開始されたことを諸国の神々に触れ回ったのが、熊野新宮神社の神である。
出口直はこのお礼として白藤を寄進し手植えした(明治25年[16])。この白藤は出口清吉(直の次男)が須知山(質山)から採って来た藤である。
国祖は熊野新宮神社を総産土の神とされ、大本に入信する時には氏子として守護を願うように総産土社(熊野新宮神社境内にある末社)にも参詣するようになった。
大本神諭に次のように出ている。
また王仁三郎は次のような歌を詠んでいる。
御開祖の植ゑおかれたる白藤は熊野神社の左右に茂れり
御開祖の二男出口清吉氏の山よりとり来し藤なりにけり
須知山の野生としては珍らしき紫ならず白き花なり
この藤の栄えとともに綾部町神都になれと開祖祈らす
白藤が栄えば綾部はよくなりて末は都と皇神の神勅《みのり》
出口直は梅と桜と白藤を植えたが、梅と桜は枯れてしまい残っていない。白藤は、昭和43年の遷座の時に新しい境内に移植された。
〔参考文献:『松のよはひ』229~232頁、243頁、246~247頁、『大本七十年史 上巻』「岩戸開き#」〕
万灯流し
毎年7月第4土曜日に行われる「あやべ水無月まつり」は4万人の観光客が訪れる綾部市内最大のイベントである。(熊野新宮神社の水無月大祭は毎年7月28日に執行される)
この時、1万個の灯篭が由良川を流れる「万灯流し」が行われる。これは明治39年頃から実業家たちが風流な遊びとして始まった[17]とか、「明治末に先祖の供養に川へ灯篭を流したのが始まり」[18]だとか言われている。しかし実は、明治40年旧9月28日、王仁三郎が竜宮の神様に献灯するため、別荘で28灯を点じて川に流したのが始まりである(川から海に流して竜宮の神様にお供えした)[19] [20]。
額・碑
- 大鳥居に懸かる額は王仁三郎の書である。第二次大本事件の時に取り外され、改森仙吉が密かに保管していたが、昭和36年9月10日に大本に返還された。[20]
- 大正10年(1921年)1月、熊野新宮神社境内に王仁三郎の歌碑が建立される。「神の子の真心ささげて拡めたる御苑清がしも石の玉垣」「苔生して神さび立てる常磐木の松にしるけし水無月の宮」という二つの歌が刻まれた。第二次大本事件で倒壊されたが、昭和43年(1968年)4月8日再建された。→「熊野神社歌碑」
- 平成5年(1993年)2月3日、出口澄子の碑が建立された。「しみせんざんにこしおかけ うしとらのこんじんまもるとよ」(初発の神諭の一節)という澄子の書が刻まれている。
その他の関わり
参考文献
外部リンク
- 那智山正暦寺(公式サイト)
- 那智山正暦寺の宿坊予約サイト
- 綾部の寺社シリーズ 宗教法人 熊野新宮神社(並松町) - あやべ市民新聞
- 熊野新宮神社 - 古代史探訪
- あやべ水無月まつり - 綾部市観光ガイド
関連項目
脚注
- ↑ 昭和58年発行のパンフレット『熊野新宮神社御由緒略記』では本殿の御祭神はこの四柱になっている。それ以前の資料(『何鹿郡誌』『綾部町史』)だと素盞嗚尊を除いた三柱になっている。
- ↑ 平重盛は平清盛の長男。重盛は永万元年(1165年)に丹波の知行国主となった〔『熊野新宮神社御由緒略記』1頁〕。
- ↑ 実際の熊野は、那智山の北麓から東麓にかけて熊野川が流れている。その熊野川沿岸の風景に、由良川沿岸の並松の風景が似ていた、ということか?
- ↑ ただし正暦寺の由緒では天慶5年(942年)に空也上人が観音様を祀ったのが始まりとされる
- ↑ 実際の熊野三山では、那智山の北麓に本宮(熊野本宮大社)があり、東麓に新宮(熊野速玉大社)、南麓に熊野那智大社がある。
- ↑ 『松のよはひ』242頁
- ↑ 寛永10年(1633年)に藩主に就任、延宝2年(1674年)に隠居。
- ↑ 「宗教法人 熊野新宮神社(並松町)」
- ↑ 『松のよはひ』227頁
- ↑ 皇居内に現在でもある。紅葉山御養蚕所 - ウィキペディア
- ↑ 『綾部市史 下巻』678~679頁
- ↑ 『綾部市史 下巻』年表11頁
- ↑ 『松のよはひ』182頁
- ↑ 『松のよはひ』183頁
- ↑ 出口王仁三郎「本宮山について#」『昭和』昭和10年(1935年)11月号
- ↑ 「大本年表」
- ↑ 『綾部町史』329~331頁
- ↑ あやべ水無月まつり(綾部市観光ガイド)
- ↑ 『松のよはひ』179頁
- ↑ 20.0 20.1 『大本七十年史 上巻』「岩戸開き#」
- ↑ 近年は午前11時。
- ↑ 『松のよはひ』93頁、247頁