長沢雄楯
長沢雄楯(ながさわ かつたて、1858~1940年)は、古神道家。御穂神社(駿河国三宮)、月見里稲荷神社の社司。本田親徳の高弟で、本田霊学の継承者。霊学の分野で出口王仁三郎に大きな影響を与えた。
目次
略歴
〔この略歴は鈴木重道・著『本田親徳研究』p460-464をもとにして作成した(特記ある場合を除く)〕
安政5年(1858年)8月8日、駿河国安倍郡不二見村下清水(現在の静岡市清水区下清水町)で生まれる。
長沢家は三河の長沢松平家の庶流で、近江守政重を初代とする家系の第13代に当たる。
幼名は大太郎。母は豊子(とよこ)。実父の奥州棚倉藩士・国中新左エ門は豊子と結婚し長沢家の婿養子となったが、大太郎が2歳の時に帰幽した。大山隼人が新たに豊子と結婚し継父となる。
明治2年(1869年)(数え年12歳)、藩立学校に入る[1]。
明治5年(1872年)(数え年15歳)、静岡の浅間神社内に中教院[2]が設置されると、入学して、専ら国学・皇学を学修・研究した。
明治7年(1874年)(数え年17歳)、中教院の助教となる。また御穂神社の祠掌(ししょう)[3]となる。
明治18年(1885年)春[4](数え年28歳)、本田親徳と出会う。本田と質疑応答するが論破することが出来ず、本田に畏敬して直ちに入門する。本田の門弟となり、専ら神懸かりの古法について研鑽修業を積んだ。
明治24年(1891年)(数え年34歳)、月見里神社(別名・御笠稲荷神社。神懸かりの司神である天宇受売大神を奉斎する最古の神社)を総本部として、県の許可を得て、御笠稲荷講社を設立し、同講社の総理になる。
昭和15年(1940年)10月10日(数え年83歳)、帰幽。
妻は寛子(昭和12~3年に帰幽)。
実子はいない。門人の吹田政吉が養子になるが長沢姓を名乗らなかった。
出口王仁三郎との関係
明治31年(1898年)4月3日、稲荷講社の三矢喜右衛門が上田喜三郎の元を訪ねて来た。紀州巡回の折、上田喜三郎の噂を聞き、総本部の長沢総理(この時は数え年41歳)に伺ったところ、因縁のある人間だから調べて来いと命じられたのだ。喜三郎は3月の高熊山修業後、人を集めて幽斎修業を行っていたが、霊学の問題の解決に没頭していた。そのため4月13日[5]、三矢の案内で静岡の長沢宅を訪ねた。
長沢は喜三郎に、霊学のことや本田親徳の来歴などについて何時間も話をした。母の豊子が、本田から10年前に預かっていた鎮魂の玉や天然笛を喜三郎に渡した。本田はこれから10年後に丹波から男がやって来て神の道が開けると言って預けたのだ。また豊子は神伝秘書の巻物も喜三郎に渡した。
長沢は喜三郎に幽斎を教え、「鎮魂帰神の二科高等得業を証す」という免状を渡した。
喜三郎は一週間ほど滞在し、4月22日に穴太に帰宅した。〔以上は霊界物語第37巻第20章「仁志東」#の記述に基づく〕
その後も王仁三郎は何度か静岡の長沢の元を訪れている。また長沢夫妻も何度か綾部・亀岡の大本を訪れている。
大正15年(1926年)7月12日、第一次大本事件の裁判に、長沢は証人として出廷している。[6]
昭和15年(1940年)9月中旬、第二次大本事件の第二審に先立ち、3人の弁護人が清水の長沢の元を訪れ、長沢は三日間に亘って講話を行った。その1~2日分(9月15日・16日)の速記録が「大本教事件ニ対スル意見」という130頁の書になった。この書は逝去の24日前の講話であり、遺著とも言えるものである。[7]
霊界物語の中の長沢雄楯
主な著書
『本田親徳研究』p474によると、長沢は「著述をのこすことをせず後進の育成には講義の外法術の指導を主とした」。従って本人が書いた著書は存在しない。しかし本人の講話等を記録したものとして、次の三著が挙げられている。
- 門人の武栄太夫が編纂した「神憑百首」。18頁の小冊子で、昭和9年春に出版された。『本田親徳研究』p475-484に解説、抄出あり。
- 第一次大本事件の際に、霊学に関する問題について大審院から鑑定書を作成する委嘱があり、150日間を費やして作成し、昭和2年(1927年)3月10日、大審院に奉呈した。その一部分を記したものとして「惟神」(タイプ刷67頁の冊子。月見里神社附属講社顕神本会発行)がある。p469註一に説明あり。p487-511に内容紹介あり。
- 前記の「大本教事件ニ対スル意見」。p511-521に内容紹介あり。
関連資料
関連項目
脚注
外部リンク
- 不二見村 - ウィキペディア
- 長沢松平家 - ウィキペディア
- 御穂神社 - ウィキペディア
- 石原和の研究室:月見里神社の研究論文あり。