上野公園
Jump to navigation
Jump to search
上野公園(うえのこうえん)は、出口王仁三郎の筆名。大正13年(1924年)の入蒙後に書いた『王仁蒙古入記』をこの筆名で発表した。
「九十九日の獄舎生活を了へて、十一月一日漸く綾部に帰り、霊界物語第六十七巻として蒙古入の梗概を口述し、表面上野公園著として天下に発表する事とした」〔第68巻序文#〕
『王仁蒙古入記』の発行所は綾部町の「蚕都新聞社」であり、上野公園の肩書きは「蚕都新聞社社長」である。
「上野公園」という名前自体は仮名だとしても、架空の人物ではなく、該当する人物がいたと思われる。『錦の土産』(入蒙前に書いた)に「上野公園氏との提携は飽くまで継続す可し」[1]と記され、また昭和3年(1928年)5~6月の四国巡教の歌日記『二名日記』に「大阪ゆ上野公園花明山にわれ見送りて帰りてぞゆく」[2]という歌がある。
また、『王仁蒙古入記』の松村真澄による「序」には「上野公園君は(略)蚕都新聞の孤塁を死守して、権勢におもねらず、名利に走らぬ所が、僕は好きなのだ。一日山なす原稿を抱えて来訪し……どうです……と差し出し、得意の笑みを満面漲らして、度の強い近眼鏡(めがね)越しに僕の顔を熟視した。それがこの王仁の蒙古入りの原稿であった」と書いてあり、王仁三郎とは別人のような描写がしてある。
該当する人物の本名は不明。また上野公園とは東京の上野公園のことなのかも不明。