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出口王仁三郎

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
2020年4月17日 (金) 02:47時点におけるIHiroaki (トーク | 投稿記録)による版 (→長沢雄楯との出会い)
この項目はまだ書きかけです。内容が不十分だったり不明瞭だったりします。

出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871~1948)は、世界改造業者。大本教祖、宗教家、霊能者、予言者としても知られている。幼名は上田喜三郎。

明治4年(1871年)7月12日生まれ。

昭和23年(1948年)1月19日(旧12月9日)昇天。


出生

明治4年(1871年)7月12日(当時はまだ改暦前。新暦だと8月27日になる)上田家に生まれる。幼名・喜三郎(きさぶろう)。

父は上田吉松(きちまつ)。母は世祢(よね)。

8人兄弟の長男。他の弟妹は次の通り[1]。

  • 長男 喜三郎
  • 次男 由松(よしまつ)
  • 三男 幸吉(こうきち)
  • 四男 政一(まさいち)
  • 五男 久太郎(きゅうたろう)…出生後数十日で帰幽。
  • 長女 絹子(きぬこ)…4才で帰幽。
  • 次女 雪子(ゆきこ)
  • 三女 君子(きみこ)


少年青年時代

高熊山修業以降

長沢雄楯との出会い

明治31年(1898年)4月3日、稲荷講社総本部の配札係[2]・三矢喜右衛門が綾部の喜三郎のもとを訪ねて来た。総本部の総理・長沢雄楯に、因縁のある人物だから調べて来いと言われたという。

4月13日(諸説あり [3] )、喜三郎は生まれて初めて汽車に乗り、三矢の案内で静岡の長沢の宅へ向かった。

<書きかけ>

4月22日の夜、穴太の自宅に帰宅した。

「王仁三郎」の名の由来

まだ亀岡で幽斎研究を続けていた頃、ひそかに出修に行けという神示が降りた。そこで友人の斎藤だけに話して、母には心配しないように書き置きを残して出かけた。このとき書き置きに、ふと「鬼三郎(きさぶろう)」と署名した。後に綾部に来てからナオの筆先で「おにさぶろう」と命名されので、「王仁三郎」と名乗るようになった。[4]

戸籍上、正式に「出口王仁三郎」になったのは明治43年(1910年)の暮れである。

第一次大本事件以降

綾部町議に当選

大正14年(1925年)5月11日の綾部町会議員選挙に王仁三郎は立候補し当選する。定員20名に対して29名が立候補し、王仁三郎は55票を得てトップ当選した。『大本七十年史』は「綾部町労働者団の有志に推されて」と記しているが、『京都日出新聞』は「信者有志の者に推され」と報じている。大本関係者としては他に2名(岩田久太郎ともう1名)立候補したようである。[5] [6]

第二次大本事件以降

家族

澄子との間に男子2人・女子6人の子ができたが、そのうち男子2人・女子1人は小さい時に帰幽したので、一般的には子は女子5人と思われている。

続柄 名前 生誕日 帰幽日 年齢
長女 直日(なおひ) 明治35年(1902年)3月7日(旧1月28日) 平成2年(1990年)9月23日(旧8月5日) 88歳
二女 梅野(うめの) 明治37年(1904年)5月30日(旧4月16日) 不明 歳
三女 八重野(やえの) 明治42年(1909年)5月1日(旧3月12日) 平成10年(1998年)12月20日(旧11月2日) 89歳
四女 一二三(ひふみ) 明治44年(1911年)8月8日(旧閏6月14日) 昭和2年(1927年)12月21日(旧11月28日) 16歳
長男 六合大(くにひろ) 大正2年(1913年)8月29日(旧7月28日) 大正3年(1914年)4月9日(旧3月14日) およそ7ヶ月
五女(四女) 尚江(ひさえ) 大正4年(1915年)3月5日(旧1月20日) 昭和52年(1977年)7月28日(旧6月13日) 62歳
二男 相生(すけなり) 大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日) 大正7年(1918年)8月25日(旧7月19日) およそ5ヶ月
六女(五女) 住之江(すみのえ) 大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日) 不明 歳

思想に影響を与えた人物

主な著作

単行本として出版されたものを中心に掲載した。これ以外に、機関誌で発表され、単行本化されていない著作も多数ある。

歌集

  • 第1歌集『花明山(かめやま)』:昭和6年(1931年)刊。
  • 第2歌集『彗星』:
  • 第3歌集『故山の夢』:10歳から27歳にかけての出来事を詠んだ歌。
  • 第4歌集『霞の奥』:昭和6年6~7月に発表された歌。
  • 第5歌集『東の光』:
  • 第6歌集『霧の海』:
  • 第7歌集『白童子(はくどうじ)』:昭和6年8~12月に発表された歌。
  • 第8歌集『青嵐(あおあらし)』:29歳の頃の出来事を詠んだ歌。
  • 第9歌集『公孫樹(いちょう)』:昭和7年1~10月に発表された歌。
  • 第10歌集『浪の音』:昭和8年(1933年)刊。30~31歳の頃の出来事を詠んだ歌。
  • 第11歌集『山と海』:昭和7年9月~8年4月に発表された歌。
  • 第13歌集『月照山』:昭和17年後半~19年末に詠んだ歌。
  • 第14歌集『百千鳥(ももちどり)』:昭和8~10年にかけて詠んだ歌。内容は明治35~39年の回顧歌。
  • 『言華(げんか)』:昭和3年1月~10年12月に詠んだ歌。
  • 『東北日記』全8巻:昭和3年(1928年)に北陸~東北~北海道~樺太を巡教した時に詠んだ歌。
  • 『朝嵐』:昭和35年(1960年)刊。第二次大本事件回顧歌集。
  • 『二名日記』:
  • 『日月日記』(全13巻):
  • 『庚午日記』(全11巻):
  • 『更生日記』(全12巻):
  • 『壬申日記』(全8巻):

(歌集の主なものは「みいづ舎」で覆刻版が出ている)

伝記

出口王仁三郎の人生を記した伝記や研究書には、主に次のものがある。

脚注

  1. ↑ 「故郷乃二十八年 〔四〕上田の家庭」による。
  2. ↑ 「配札(はいさつ)」とは御札を配ること。
  3. ↑ 喜三郎が初めて長沢雄楯と会った日は、文献によって異なる。 (1) 霊界物語では穴太を出発したのは4月13日で、穴太に帰ったのは4月22日の夜である。第37巻第20章「仁志東」/a048#:「三矢の案内で愈同月の十三日、穴太を立つて」「一週間許り世話になつて、二十二日の夜漸く穴太の自宅に帰る事を得た」。
    (2) 『神霊界』大正8年(1919年)8月15日号掲載の「随筆」p14によると、4月15日に出発し、16日に長沢から鎮魂帰神の高等得業の証を受けた。{obc|B195502c110708|随筆『神霊界』大正8年8月15日号掲載}}:「同月十五日東上して、長沢氏に合ふたのである」「長沢氏より四月十六日、先生に逢つた翌日、直ぐに「鎮魂帰神の高等得業を証す」と云ふ辞令を頂いて」。
    (3) 「本教創世記」では4月15日付で喜三郎は中監督に任ぜられ、4月28日に出発。3日間滞在したというので、5月1日に穴太に帰ったことになる。第十章 幽斎修業#:「四月の二十八日に三ツ屋の案内にて、始めて参閣する事となったのである」、第十一章 出発#:「しかしただの三日の逗留であったから」。
    (4) 「大本年表」は「本教創世記」と同じく、4月15日に中監督に任ぜられ、4月28日に出発。
    (5) 『大本七十年史』では詳しい日付は書いていない。『大本七十年史 上巻』「稲荷講社と本田親徳#」
  4. ↑ 『大本七十年史 上』P156-157
  5. ↑ 『京都日出新聞』大正14年(1925年)5月8日夕刊(9日付)p2、同5月12日夕刊(13日付)p2。
  6. ↑ 『大本七十年史 上巻』「国内宣教と造営#」

関連項目

外部リンク

  • <wp>出口王仁三郎</wp>