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* 昭和13年(1938年)の第二次大本事件地裁公判の中で王仁三郎は、昭和50年頃の東京には地下に町が出来ると予言している。〈私は空襲なんかで、昭和五十年になつたならば、東京はすつくり薄原になつて、其の地下に町が出来る、地下にすつくりなつてしまひます。 それは、地下に住居が出来て、飛行機が来ても判らないやうに、ちやんと国防上さうなる。段々世の中の科学が進んで来る。〉〈今の陸上の東京は続かないけれども、四十年も先へ行けばもう総て科学は進んで来て、海の中へ迄電信局が出来ます。海底迄──私はそれを予言して置きます。見て居りますから。〉〈霊界で見た。海の中迄行つたことを見たのであります。(略)若い人があつたら、それを覚えて置いて貰ふたら判ります。〉<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195503c220203|地裁公判速記録(3)}}」</ref> :戦前から地下街は存在していた(昭和5年・東京上野、昭和17年・大阪梅田)。しかし本格的に地下街が建設されるようになったのは戦後であり、特に高度経済成長期から全国各地に造られて行った<ref>{{wp|地下街#歴史}}</ref>。それらは商業施設であり、日本では地下の住居は現在のところほとんど存在していない。海底の電信局とは海底ケーブルや海底データセンターの予言か? | * 昭和13年(1938年)の第二次大本事件地裁公判の中で王仁三郎は、昭和50年頃の東京には地下に町が出来ると予言している。〈私は空襲なんかで、昭和五十年になつたならば、東京はすつくり薄原になつて、其の地下に町が出来る、地下にすつくりなつてしまひます。 それは、地下に住居が出来て、飛行機が来ても判らないやうに、ちやんと国防上さうなる。段々世の中の科学が進んで来る。〉〈今の陸上の東京は続かないけれども、四十年も先へ行けばもう総て科学は進んで来て、海の中へ迄電信局が出来ます。海底迄──私はそれを予言して置きます。見て居りますから。〉〈霊界で見た。海の中迄行つたことを見たのであります。(略)若い人があつたら、それを覚えて置いて貰ふたら判ります。〉<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195503c220203|地裁公判速記録(3)}}」</ref> :戦前から地下街は存在していた(昭和5年・東京上野、昭和17年・大阪梅田)。しかし本格的に地下街が建設されるようになったのは戦後であり、特に高度経済成長期から全国各地に造られて行った<ref>{{wp|地下街#歴史}}</ref>。それらは商業施設であり、日本では地下の住居は現在のところほとんど存在していない。海底の電信局とは海底ケーブルや海底データセンターの予言か? | ||
=== | === 敗戦 === | ||
* 王仁三郎は大正末期に「八月十五日」という書を揮毫していた(前掲)。 | * 王仁三郎は大正末期に「八月十五日」という書を揮毫していた(前掲)。 | ||
* 戦争末期に王仁三郎は、原爆投下や敗戦を多数の信者に伝えている。〔『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c6521|戦争の終結}}」から抜粋〕 | * 戦争末期に王仁三郎は、原爆投下や敗戦を多数の信者に伝えている。〔『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c6521|戦争の終結}}」から抜粋〕 | ||
2025年12月28日 (日) 12:11時点における版
この項目では、出口直・王仁三郎が発した予言、及び他人が発した出口直・王仁三郎の出現に関する予言についてリストアップする。
明治
大正
正月五日天

出口王仁三郎は大正8年(1919年)に「正月五日天」という書を揮毫した。これは大正10年2月12日=旧正月5日に勃発した第一次大本事件の予言だと言われている。
本宮山神殿取毀
第一次大本事件の際、当局の命令で本宮山神殿が取り壊されることになった。大正10年(1921年)10月20日から取毀工事が始まったが、その年の1月にすでに王仁三郎はその日時を機関誌上で予言していた。→「本宮山神殿#取毀の予言」
原敬首相暗殺
大正10年(1921年)11月4日午後7時26分、東京駅構内で総理大臣・原敬が短刀で刺殺された。犯人は18歳の青年・中岡艮一である。原は大正7年9月から首相を務めており、第一次大本事件(大正10年2月)で大本が弾圧された時の首相である。艮の金神が開いた大本を弾圧した首相が、「艮」を名に持つ男に殺されたという、皮肉な事件であった。
この原敬首相暗殺を、王仁三郎は数時間前に予言していた。次の2種の少々異なるエピソードが伝わっている。
空中郵便
大正11年(1922年)4月4日に口述された霊界物語第15巻第21章「帰顕」#に、21世紀の初頭から「空中郵便」という一種の「交通機関」(あるいは通信機関)が開始されているというセリフが登場する。この空中郵便はあたかも21世紀から使われるようになったスマートフォンのような装置である。→「空中郵便」
八月十五日

王仁三郎は大正末期に「八月十五日」という書を揮毫した。これは昭和20年(1945年)8月15日の終戦を予言したものだと言われている。
神仏無量寿経
王仁三郎は昭和23年(1948年)1月19日に昇天したが、23年前の大正13年(1924年)に自分が死ぬ日を予言していた。→「神仏無量寿経」
昭和
地下都市
- 昭和13年(1938年)の第二次大本事件地裁公判の中で王仁三郎は、昭和50年頃の東京には地下に町が出来ると予言している。〈私は空襲なんかで、昭和五十年になつたならば、東京はすつくり薄原になつて、其の地下に町が出来る、地下にすつくりなつてしまひます。 それは、地下に住居が出来て、飛行機が来ても判らないやうに、ちやんと国防上さうなる。段々世の中の科学が進んで来る。〉〈今の陸上の東京は続かないけれども、四十年も先へ行けばもう総て科学は進んで来て、海の中へ迄電信局が出来ます。海底迄──私はそれを予言して置きます。見て居りますから。〉〈霊界で見た。海の中迄行つたことを見たのであります。(略)若い人があつたら、それを覚えて置いて貰ふたら判ります。〉[1] :戦前から地下街は存在していた(昭和5年・東京上野、昭和17年・大阪梅田)。しかし本格的に地下街が建設されるようになったのは戦後であり、特に高度経済成長期から全国各地に造られて行った[2]。それらは商業施設であり、日本では地下の住居は現在のところほとんど存在していない。海底の電信局とは海底ケーブルや海底データセンターの予言か?
敗戦
- 王仁三郎は大正末期に「八月十五日」という書を揮毫していた(前掲)。
- 戦争末期に王仁三郎は、原爆投下や敗戦を多数の信者に伝えている。〔『大本七十年史 下巻』「戦争の終結#」から抜粋〕
- 〈「火の雨がふる。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ」「新兵器の戦いや」「東洋に一つおとしても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている」〉
- 〈昭和一九年の春、面会におとずれた広島の信者にたいし、「戦争は日本の敗けだ。広島は最後に一番ひどい目にあう。それで戦争は終りだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」と疎開をいそがせたという。また、「広島は戦争終末期に最大の被害をうけ、火の海と化す。……そのあと水で洗われるんや、きれいにしてもらえるのや」とも伝えられていたが、広島は八月に原爆をうけ、九月には二度も大水害にみまわれたのである。〉
- 〈昭和一八年長野の信者が、「二〇年八月一五日に留意せよ。皆神山は安全地帯でB29の不安はない」と聖師からきかされているし、昭和一九年には「来年のわしの誕生日(旧7・12、新8・19)のあとさきになると、政治上・軍事上・経済上、日本に重大なことがある」ときかされていた信者もある。なお「昭和二〇年葉月(八月)なかば、世界平和の緒につく」ともきかされているが、昭和二〇年に入ってからは、こうした事例はさらに顕著となった。〉
- 〈聖師はソ連の参戦と満州・樺太の占領をはやくから予測していて、一九四三(昭和一八)年一一月、満州の部隊に入隊する信者の子弟らは、三六もの拇印をおした腹帯をあたえられ、「日本は敗ける。ソ連が出て一週間もしたら大連まで赤旗か立つ。そしたらすぐ道院へ行きなはれ」と教えられていた。昭和一九年の一月には東満総省長であった三谷清のもとへ、内地の信者から「今、日本は必死になって南の方ばかり見て戦っているが、不意に後から白猿に両眼を掻きまわされると、三谷さんに伝えなさい」(『三谷手記』)との聖師の伝言がつたえられていた。敗戦によって台湾がうしなわれることもすでにつたえられていた。〉
- 小説家の織田作之助は王仁三郎が取り調べの際に検事に「昭和二十年の八月二十日には、世界に大変動が来る。この変動は日本はじまって以来の大事件になる」と予言して検事に叱り飛ばされたと書いているが、その情報はただの風説だと思われる。→「大本に関する俗説」