「岡田茂吉」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
| 16行目: | 16行目: | ||
* 大正8年(1919年)春、多額の負債を抱え、倒産(借金の返済はその後22年間続いた)。 | * 大正8年(1919年)春、多額の負債を抱え、倒産(借金の返済はその後22年間続いた)。 | ||
* 同年6月、妻タカが女児を早産するが、間もなく死亡。一週間後にタカも死んでしまう。(それ以前にも2回妊娠しているが、1回目は夭折、2回目は死産している。結婚後なかなか妊娠しなかったため、姉の遺児を引き取り(3人?)育てていた) | * 同年6月、妻タカが女児を早産するが、間もなく死亡。一週間後にタカも死んでしまう。(それ以前にも2回妊娠しているが、1回目は夭折、2回目は死産している。結婚後なかなか妊娠しなかったため、姉の遺児を引き取り(3人?)育てていた) | ||
* 同年12月、よし子(太田よ志)と再婚。半年後に妊娠するが、その五ヶ月後によし子は肺結核にかかってしまう。<ref name="zensyu1_p14"> | * 同年12月、よし子(太田よ志)と再婚。半年後に妊娠するが、その五ヶ月後によし子は肺結核にかかってしまう。<ref name="zensyu1_p14">『岡田茂吉全集 著述編 第1巻』14~15頁</ref> | ||
* 茂吉は奈落の底に落ち、信仰の道を模索し始めた(37歳)。それまでは徹底した無神論者で、神仏に祈る人たちをバカにしていたが、相次ぐ不幸によって一変し、救いを求めて様々な宗教の門を叩いた。 | * 茂吉は奈落の底に落ち、信仰の道を模索し始めた(37歳)。それまでは徹底した無神論者で、神仏に祈る人たちをバカにしていたが、相次ぐ不幸によって一変し、救いを求めて様々な宗教の門を叩いた。 | ||
* 大正9年(1920年)新聞広告で「大本教批判」という本を知り、買って読む。その後、神田の錦輝館(きんきかん)で大本教の講演会があることを新聞で知り、聞きに行った。その講演(講師は吉原亨)を聞いて、大本教こそ自分を救ってくれると茂吉は確信した。<ref name="zensyu1_p14" /> | * 大正9年(1920年)新聞広告で「大本教批判」という本を知り、買って読む。その後、神田の錦輝館(きんきかん)で大本教の講演会があることを新聞で知り、聞きに行った。その講演(講師は吉原亨)を聞いて、大本教こそ自分を救ってくれると茂吉は確信した。<ref name="zensyu1_p14" /> | ||