差分

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熊野館

4 バイト除去, 2018年11月23日 (金) 22:24
戦時中
王仁三郎の指示により熊野館の建物や庭が拡張されて行った。庭の北西隅<ref>「愛善苑新発足の中心・熊野館」では「北西隅」、『第三次大本事件の真相』では「北側」、『大本七十年史』では「西側」</ref>には富士山をかたどった築山が造られた。また西北の隅には小池が掘られ鏡池<ref>『第三次大本事件の真相』では「鏡池」、『大本七十年史』では「富山池」とあるが、「愛善苑新発足の中心・熊野館」によると作業をした奉仕者の作田勇平と坂田三郎が富山出身のため王仁三郎はこの池を一時「富山池」と名付けたが、それは仮の名で、池が完成してからは「鏡池」と改名された。</ref>と命名された。この二つは[[富士と鳴戸]]になぞらえたもので、これを雛型として後に綾部に[[月山富士]]と[[金竜海]]が造られた。また築山には「[[みろく松]]」が植えられた。<ref name="daisanji_p46" /> <ref name="B195402c6432" /> <ref name="izutomizu_198502p35">『いづとみづ』昭和60年(1985年)2月号p35-38、出口和明「愛善苑新発足の中心・熊野館」</ref> <ref>『新月の光』0595「曲水の宴(聖師邸の富山池)」</ref>
建物に関しては、まず庭の南西隅に土蔵が建てられた。当時、船の形をしていた田の、帆柱に当たる位置に建てられ、出口澄子は「わが屋敷、宝の船の形をなして、霧の海原にいかり下ろせり」と短冊に歌を詠んだ。また6畳と4畳半の家が造られ昭和20年4月16日に完成。「[[みろく亭]]」と命名された。建物に関しては、まず庭の南西隅に土蔵が建てられた。当時、船の形をしていた田の、帆柱に当たる位置に建てられ、出口澄子は「わが屋敷、宝の船の形をなして、霧の海原にいかり下ろせり」と短冊に歌を詠んだ。また6畳と4畳半の家が造られ昭和20年4月16日に完成。「みろく亭」と命名された。<ref name="izutomizu_198502p35" />
その日(昭和20年4月16日)、[[出口直美]]([[直日]]の長女)と[[家口栄二]]、[[出口操]]([[梅野]]の長女)と[[角田光平]]の二組の合同結婚式が、熊野館の神前で行われた。<ref name="daisanji_p46" /> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c653|3 新生への準備}}」</ref>

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