「予言」の版間の差分

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== 昭和 ==
== 昭和 ==
=== 終戦の予言 ===
* 王仁三郎は大正末期に「八月十五日」という書を揮毫していた(前掲)。
* 戦争末期に王仁三郎は、原爆投下や敗戦を多数の信者に伝えている。〔『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c6521|戦争の終結}}」から抜粋〕
** 〈「火の雨がふる。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ」「新兵器の戦いや」「東洋に一つおとしても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている」〉
** 〈昭和一九年の春、面会におとずれた広島の信者にたいし、「戦争は日本の敗けだ。広島は最後に一番ひどい目にあう。それで戦争は終りだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」と疎開をいそがせたという。また、「広島は戦争終末期に最大の被害をうけ、火の海と化す。……そのあと水で洗われるんや、きれいにしてもらえるのや」とも伝えられていたが、広島は八月に原爆をうけ、九月には二度も大水害にみまわれたのである。〉
** 〈昭和一八年長野の信者が、「二〇年八月一五日に留意せよ。皆神山は安全地帯でB29の不安はない」と聖師からきかされているし、昭和一九年には「来年のわしの誕生日(旧7・12、新8・19)のあとさきになると、政治上・軍事上・経済上、日本に重大なことがある」ときかされていた信者もある。なお「昭和二〇年葉月(八月)なかば、世界平和の緒につく」ともきかされているが、昭和二〇年に入ってからは、こうした事例はさらに顕著となった。〉
** 〈聖師はソ連の参戦と満州・樺太の占領をはやくから予測していて、一九四三(昭和一八)年一一月、満州の部隊に入隊する信者の子弟らは、三六もの拇印をおした腹帯をあたえられ、「日本は敗ける。ソ連が出て一週間もしたら大連まで赤旗か立つ。そしたらすぐ道院へ行きなはれ」と教えられていた。昭和一九年の一月には東満総省長であった三谷清のもとへ、内地の信者から「今、日本は必死になって南の方ばかり見て戦っているが、不意に後から白猿に両眼を掻きまわされると、三谷さんに伝えなさい」(『三谷手記』)との聖師の伝言がつたえられていた。敗戦によって台湾がうしなわれることもすでにつたえられていた。〉
* 小説家の織田作之助は王仁三郎が取り調べの際に検事に「昭和二十年の八月二十日には、世界に大変動が来る。この変動は日本はじまって以来の大事件になる」と予言して検事に叱り飛ばされたと書いているが、その情報はただの風説だと思われる。→「[[大本に関する俗説]]」


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