「十ケ月暦」の版間の差分

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昭和6年(1931年)9月の王仁三郎の日記『[[更生日記]] 九の巻』に、王仁三郎が発表した十ケ月暦について世間の反響が採録されており、それを報道した新聞記事が転載されている。<ref>『[[神の国 (1921)|]]』昭和6年(1931年)10月号、94頁「聖都消息」にそれに関する記事がある。〈曩に国際連盟改暦委員会提唱の三種の改暦案に就て新聞紙上を賑はして居ました。去る五日催された京都中外日報主催の改暦座談会に大本からは宇知麿様が出席、聖師案改暦十ヶ月説を発表されました。識者の注目を引くところ非常にあつたと見えて、其後各地の新聞に大本の改暦案として掲載されました。この案の詳細は前号神の国「玉鏡」に示されてあります。〉</ref>
昭和6年(1931年)9月の王仁三郎の日記『[[更生日記]] 九の巻』に、王仁三郎が発表した十ケ月暦について世間の反響が採録されており、それを報道した新聞記事が転載されている。<ref>『[[神の国 (1921)|]]』昭和6年(1931年)10月号、94頁「聖都消息」にそれに関する記事がある。〈曩に国際連盟改暦委員会提唱の三種の改暦案に就て新聞紙上を賑はして居ました。去る五日催された京都中外日報主催の改暦座談会に大本からは宇知麿様が出席、聖師案改暦十ヶ月説を発表されました。識者の注目を引くところ非常にあつたと見えて、其後各地の新聞に大本の改暦案として掲載されました。この案の詳細は前号神の国「玉鏡」に示されてあります。〉</ref>


9月5日に[[中外日報]]社(京都)主催により大勢の宗教関係者が招かれて暦法改正座談会が開かれた。記事の見出しに〈改暦案に対する外務当局の怠慢を攻撃し大勢、尚早論に傾く〉と書かれてあり、国際連盟の改暦案に否定的な集まりであった。この座談会に出席した[[出口宇知麿]]は大本には独自の改暦案があると発言した。〔[[中外日報]]9月8日報道、『[[更生日記]] 九の巻』71頁{{ndldl|1137614/1/49}}〕
9月5日に[[中外日報]]社(京都)主催により大勢の宗教関係者が招かれて暦法改正座談会が開かれた。記事の見出しに〈改暦案に対する外務当局の怠慢を攻撃し大勢、尚早論に傾く〉と書かれてあり、国際連盟の改暦案に否定的な集まりであった。この座談会に出席した[[出口宇知麿]]は大本には独自の改暦案があると発言した。〔[[中外日報]]9月8日報道、『[[更生日記]] 九の巻』71頁、{{ndldl|1137614/1/49}}〕


9月9日、丹波毎日新聞(綾部)は王仁三郎の十ケ月暦を具体的に紹介し、〈該案は人類愛善会欧羅巴(ヨーロッパ)本部を通じて欧米各国の新聞紙上に発表しセンセーシヨンを捲き起してゐる〉〈因に出口氏は本案は神示の暦法として国際的に統一さるるものとの固き自信を有してゐる〉と報道している。〔丹波毎日新聞9月9日報道、『[[更生日記]] 九の巻』75頁{{ndldl|1137614/1/52}}〕
9月9日、丹波毎日新聞(綾部)は王仁三郎の十ケ月暦を具体的に紹介し、〈該案は人類愛善会欧羅巴(ヨーロッパ)本部を通じて欧米各国の新聞紙上に発表しセンセーシヨンを捲き起してゐる〉〈因に出口氏は本案は神示の暦法として国際的に統一さるるものとの固き自信を有してゐる〉と報道している。〔丹波毎日新聞9月9日報道、『[[更生日記]] 九の巻』75頁、{{ndldl|1137614/1/52}}〕


9月10日、[[北国夕刊新聞]](北陸)、鹿児島新聞、丹州時報(舞鶴)でも王仁三郎の十ケ月暦が報道されたようである。〔『[[更生日記]] 九の巻』81頁{{ndldl|1137614/1/55}}〕
9月10日、[[北国夕刊新聞]](北陸)、鹿児島新聞、丹州時報(舞鶴)でも王仁三郎の十ケ月暦が報道されたようである。〔『[[更生日記]] 九の巻』81頁、{{ndldl|1137614/1/55}}〕


9月11日、[[大正日日新聞]](この当時はすでに大本から離れていた)、大阪経済新聞で十ケ月暦が報道。〔『[[更生日記]] 九の巻』83頁{{ndldl|1137614/1/56}}、同89頁{{ndldl|1137614/1/59}}〕
9月11日、[[大正日日新聞]](この当時はすでに大本から離れていた)、大阪経済新聞で十ケ月暦が報道。〔『[[更生日記]] 九の巻』83頁、{{ndldl|1137614/1/56}}、同89頁、{{ndldl|1137614/1/59}}〕


9月13日、中外日報は十ケ月暦の内容を報道(9月8日の報道では内容まで報道していなかった)。
9月13日、中外日報は十ケ月暦の内容を報道(9月8日の報道では内容まで報道していなかった)。