「田中たま」の版間の差分
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* 名古屋の八事(やごと)(現在の名古屋市天白区から昭和区にまたがる地名)に住んでいた<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223</ref>。 | * 名古屋の八事(やごと)(現在の名古屋市天白区から昭和区にまたがる地名)に住んでいた<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223</ref>。 | ||
* 明治22年(1889年)12月20日、娘の[[家口いく|いく]]を産む<ref name="sensyuu_4_p222" />。 | * 明治22年(1889年)12月20日、娘の[[家口いく|いく]]を産む<ref name="sensyuu_4_p222" />。 | ||
− | * | + | * いくが生まれて数日後に、名古屋市長(中村修)が熾仁親王に報告に行っているようである<ref>『[[有栖川宮熾仁親王日記]] 巻五』p269、明治22年(1889年)12月24日の項に、「愛知県名古屋市長中村修」が熾仁親王と「面謁」したことが記されている。</ref>。熾仁親王はそのしるしとして、短冊とルビーの指輪と産着をたまに与えた。短冊の歌は「玉矛(たまほこ)の道ある世をぞ仰ぐらん万(よろず)の民もひとつこころに」で、[[王仁三郎]]はそれを見て「これはみろくの世のお祈りの歌じゃ」と言った。ルビーの指輪はたまから、娘のいくに渡り、[[出口栄二|栄二]]が結婚する時、[[出口直美]]に贈られた。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223</ref> |
* たまにはいくの他にも子供がいる。佐分慎一郎との間に4人の子供がいた。その1人に画家の佐分真(さぶり まこと、1898~1936年)がいる。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223~224</ref> | * たまにはいくの他にも子供がいる。佐分慎一郎との間に4人の子供がいた。その1人に画家の佐分真(さぶり まこと、1898~1936年)がいる。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223~224</ref> | ||
* 昭和19年(1944年)9月29日、死去(78歳)<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p221</ref>。 | * 昭和19年(1944年)9月29日、死去(78歳)<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p221</ref>。 |
2020年2月12日 (水) 00:42時点における版
田中たま(たなか たま)は、出口栄二の祖母。有栖川宮熾仁親王との間に娘の「いく」が生まれ、いくは家口顕と結婚して、栄二が生まれた。「有栖川宮熾仁親王日記」には田中たまの名前が二度ほど出てくる[1]。
- 日本舞踊の西川流の名取で、名古屋で芸妓をしていた[2]。
- 名古屋の八事(やごと)(現在の名古屋市天白区から昭和区にまたがる地名)に住んでいた[3]。
- 明治22年(1889年)12月20日、娘のいくを産む[1]。
- いくが生まれて数日後に、名古屋市長(中村修)が熾仁親王に報告に行っているようである[4]。熾仁親王はそのしるしとして、短冊とルビーの指輪と産着をたまに与えた。短冊の歌は「玉矛(たまほこ)の道ある世をぞ仰ぐらん万(よろず)の民もひとつこころに」で、王仁三郎はそれを見て「これはみろくの世のお祈りの歌じゃ」と言った。ルビーの指輪はたまから、娘のいくに渡り、栄二が結婚する時、出口直美に贈られた。[5]
- たまにはいくの他にも子供がいる。佐分慎一郎との間に4人の子供がいた。その1人に画家の佐分真(さぶり まこと、1898~1936年)がいる。[6]
- 昭和19年(1944年)9月29日、死去(78歳)[7]。