「月宮殿」の版間の差分
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'''月宮殿'''(げっきゅうでん)は、戦前、[[天恩郷]]にあった総石造りの神殿のことである。亀岩(天恩郷の一番盛り上がっている所)の上に、全国から集められた9千個の石材を使って造営された。瑞霊である[[月の大神]]を主祭神とする地上霊国での最高最貴の神殿である。第二次事件で破壊され、戦後は跡地に「[[月宮宝座]]」が造られた。 | '''月宮殿'''(げっきゅうでん)は、戦前、[[天恩郷]]にあった総石造りの神殿のことである。亀岩(天恩郷の一番盛り上がっている所)の上に、全国から集められた9千個の石材を使って造営された。瑞霊である[[月の大神]]を主祭神とする地上霊国での最高最貴の神殿である。第二次事件で破壊され、戦後は跡地に「[[月宮宝座]]」が造られた。 |
2014年3月14日 (金) 00:35時点における版
月宮殿(げっきゅうでん)は、戦前、天恩郷にあった総石造りの神殿のことである。亀岩(天恩郷の一番盛り上がっている所)の上に、全国から集められた9千個の石材を使って造営された。瑞霊である月の大神を主祭神とする地上霊国での最高最貴の神殿である。第二次事件で破壊され、戦後は跡地に「月宮宝座」が造られた。
造営
月宮殿の建設は天恩郷を買収(大正8年12月)したときから計画されていたが、一次事件によって中止となり、その後天恩郷の建設に着手(大正14年の節分)してから再び計画された。
大正15年(1926年)11月22日、「国魂石」として全国各地の生石を集めるようにと発表。全国から大小様々な石が献納される。海外からも送られて来て、天恩郷内は石で埋められた。
天恩郷で一番高く盛り上がっている高台は、高熊山辺りから連なっている岩盤である。その頂点が亀の形をしているので昔から「亀岩」と呼ばれていた。その上に月宮殿が建てられた。
昭和2年(1927年)7月9日から王仁三郎は、その高台に国魂石を引っ張り上げさせ、自ら作業着を着て石を配置し、十字型[1]の国魂宝座を造って行った。昼夜を問わず作業が続けられ、1300個もの石が40個で積み終わった。
月宮殿は月面の隈(くま)(白黒に見える模様)を移写して設計された。「兎が餅を搗くと云ふ月の面(おもて)のあの隈(くま)は、実に四十八宝座の形なのであつて、築いた宝座は月の形そのままであるから、月宮殿の名も出て来る…」[2]というのが「月宮殿」の名の由来である。(高熊山の岩窟にも48個の宝座がある。)
また、オリオン星座を地上に写したのが月宮殿である、とも語っている[3]。
明治36年(1903年)~37年の頃、王仁三郎は綾部の神苑の別荘の北手にあった3坪ばかりの小さい庭に、和知川から小石を拾って来ては積んで楽しんでいたが、それがこの宝座の模型である[4]。
月宮殿は王仁三郎が霊界において見たものをもとに造られたが、建築史上類例のないものだった。用材は「信真」に相応させて全部石材を用い、棟は十字型の構造である。屋根の構造や窓、天井などは、イラン・イラク地方(つまりメソポタミア)の古代建築物を研究し、アジア古代の伝説的絵画を参考にした独特なものである。家でも塔でも堂宇でも神社でもない、独創的な建造物だった。広さはおよそ12坪[5]。
使用された主な石材は、力石、本小松石、月の出石、日の出石、更紗石、旭石、黄竜石、桜花崗石、曙石、斑糲石、白大理石、蒼竜石、那智黒石、月石などで、石の色によって立体的な色彩を表わし、合計9千個の石材が使用された。
月宮殿・国魂宝座の周囲は、青・白・黄の石材を粉砕して三色に色別したコンクリート塀で囲み、正面の入口には欅(けやき)で門が造られた。この門を「瑞月門」と呼ぶ。
昭和3年(1928年)11月12日、月宮殿の造営工事が完了。その深夜、午前1時に綾部の教祖殿で祭典が行われ、秘蔵してあった月宮殿の御神体を遷座するため移動が始まった。御神体を唐櫃に納めて、王仁三郎と澄子が駕籠でその前後に付き添い、他の者は徒歩で、一行36人が綾部から亀岡まで随行した。12日の夕方6時に亀岡に到着。王仁三郎が祭主となって遷座鎮祭の式が行われた。御神体の石は複数あり、みろく石は出口宇知麿が、月照石は御田村竜吉が、日照石は井上留五郎が、三光石は東尾吉雄が、暁の明星石は大国以都雄が、宵の明星石は出口寿賀麿が捧持して月宮殿に入殿して式が行われた。
同年11月16日、月宮殿完成式が盛大に行われた。
(以上、参考文献は『大本七十年史 下』P13~17)
- 昭和5年(1930年)4月から、天恩郷での春と秋の大祭には、月宮殿から神輿の渡御が行われた。[6]
御神体
昭和10年(1935年)12月4日、笹目秀和は大陸へ旅立つ直前に綾部に寄り王仁三郎と面会した。その時、王仁三郎に依頼され、月宮殿の御神体を預かり、それを崑崙山に鎮めるという御神業を行った。→ 「笹目秀和」の項を参照。
その出来事は本人の自伝『神仙の寵児』に記されているが、『大本七十年史』に次のように記されていることが傍証となる。 「一二月四日島根別院の大祭に出発する前日の真夜中、聖師がひそかに月宮殿にはいり、ご神体をとりだして、他の石ととりかえておいたことを側近の内崎照代がうかがいみたといわれているが、それは極秘にされて、他へはもらされなかった。」[7]
破壊
第二次大本事件により大本の聖地は当局により徹底的に破壊された。昭和11年(1936年)5月11日から6月12日までおよそ1ヶ月かけて破壊作業が行われた。
石とコンクリートで造られた月宮殿は、ダイナマイト1500発以上を使い、21日間かかって破壊された。[8]
月宮宝座
第二次大戦後は月宮殿跡に「月宮宝座」が築造された。神殿はなく、高さ8尺(2.4m)、直径10間(18m)の宝座だけである。
王仁三郎昇天後の昭和23年(1948年)8月15日、月宮山・月宮宝座の築造計画が発表され、翌16日には早速、月宮宝座起工式が行われた。
これは「綾部は日の大神様の聖壇で、亀岡は月の大神様の聖地であるから、月に型どった円形の聖壇を設ける」との王仁三郎の意志に沿って築造されたものである。
11月から作業が開始され、二次事件で破壊された道路や石垣積みなどの作業も進められ、翌24年6月6日には月宮宝座の巨石積みが終了した。この巨石は、二次事件によって破壊された国魂宝座の国魂石が使われた。頂上にある大きな「天拝石」には伊都能売観音像の手前下(現在の大安石の左)に安置されていた扁平な巨石(重さ約7.5t)が使われた。
月宮宝座の完成について出口澄子・二代苑主(当時は「愛善苑」)は、「撞の神瑞霊真如瑞みたま守りますなり昇り降りて」「闇の世も何時まで続くものならず月いでませよ月宮宝座に」と詠んでいる。
月宮宝座は天恩郷の至聖所であり、平成4年(1992年)12月8日以降は禁足地となった。
(以上、参考文献は『大本七十年史 下』P841~842)
月宮殿について言及されている文献
- 出口王仁三郎・著『水鏡』
- 地上に移写すオリオン星座
- 月宮殿の宝座
- 高熊山に現はれた霊石
- 出口王仁三郎・著『月鏡』
- 樹木の育て方
- 出口王仁三郎・著『玉鏡』
- マリヤ観音
- 月宮殿の仁王様
- 天書
- 木庭次守・編『新月の光』
- 五十嵐太郎・著『新宗教と巨大建築』2001年、講談社(現代新書)