「出口宇知麿」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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'''出口宇知麿'''(でぐち うちまる)(1903年 - 1973年)は[[王仁三郎]]の三女・[[八重野]]の夫。本名は伊佐男。宇知麿は[[大本名]]。宇知丸とも書く。旧姓・佐賀。(佐賀伊佐男、出口伊佐男)
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'''出口宇知麿'''(でぐち うちまる)(1903~1973年)は[[王仁三郎]]の三女・[[八重野]]の夫。教主補佐、[[愛善苑]]委員長、[[大本総長]]などを歴任。また[[世界連邦運動]]においては、世界連邦建設同盟副会長、世界連邦世界協会理事などを務めた。本名は'''伊佐男'''(いさお)。宇知麿は[[大本名]]。'''宇知丸'''とも書く。旧姓・佐賀。(佐賀伊佐男、出口伊佐男)
  
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== 略年表 ==
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(文献によって年月日が多少異なる場合がある)
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* 明治36年(1903年)1月15日(旧12月17日)愛媛県喜多村常盤町(現在の大洲市)で生まれる。父・佐賀亀吉、母・シナヨの長男。4歳年上の姉・トモヱがいる。<ref name="mnh">『[[松のひびき]]』p156「略年譜」</ref> <ref>『[[大地の母]] 下巻』707頁</ref>
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* 8歳で父と死別。<ref>『[[大地の母]] 下巻』707頁</ref>
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* 大正7年(1918年)8月23日、大本へ初参拝。<ref name="mnh" />
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* 同年10月、愛媛県立八幡浜商業学校本科一年中退。<ref name="mnh" />
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* 同年10月10日、綾部に移住。<ref>『[[大地の母]] 下巻』725頁</ref>
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* 大正13年(1924年)1月31日、出口家に入籍<ref>『松のひびき』では13年1月31日に入籍(つまり養子)とあるが、『大本七十年史 上』「{{obc|B195401c4224|新機運の動向}}」713頁では「同一一年一〇月出口家にはいって」と書いてある。</ref>。「内を丸く守れよ」という意味で[[王仁三郎]]が「宇知丸」と命名<ref>『[[第三次大本事件の真相]]』187頁 ただし命名時期は不明</ref>。
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* 同年2月4日(節分)、[[八重野]]と結婚する。<ref name="omnp">「[[大本年表]]」</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 上巻』718頁</ref>
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* 同年4月7日、二代教主(澄子)と三代教主(直日)の教主補佐となる。<ref>「大本年表」では4月7日、『松のひびき』では4月6日。</ref>
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* 昭和2年(1927年)4月2日、名前を「宇知丸」から「宇知麿」に改名。呼び方は従来通り「うちまる」。<ref>『[[真如の光]]』昭和2年(1927年)4月15日号p.83</ref> <ref>ただし「[[大本年表]]」『松のひびき』では昭和3年2月1日に改名したと記されている。</ref>
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* 昭和3年(1928年)2月5日、教主補佐を辞任。<ref name="omnp" /> <ref>『[[第三次大本事件の真相]]』187頁</ref>(2月1日に三代直日と日出麿が結婚、6日に日出麿が教主補となる<ref name="omnp" />)
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* 昭和10年(1935年)12月8日、第二次大本事件勃発。昭和神聖会東京本部で検挙される。
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* 昭和17年(1942年)8月7日、王仁三郎・澄子と共に、保釈出所。
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* 昭和21年(1946年)2月14日、愛善苑(2月7日発足)の委員長に就任。
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* 昭和24年(1949年)10月29日、教団名が大本愛善苑に改称。その総長に就任。
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* 昭和27年(1952年)4月1日、教団名が大本に改称。総長となる。
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* 昭和33年(1958年)4月1日、大本総長を辞任。
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* 昭和48年(1973年)5月6日(旧4月4日)帰幽。享年70歳。
  
*明治36年([[1903年]])1月15日(旧12月17日)愛媛県喜多村常盤町(現在の大洲市)で生まれる。父・佐賀亀吉、母・シナヨの長男。4歳年上の姉・トモヱがいる。<ref>『[[大地の母]] 下巻』707頁</ref>
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子に長男・[[出口和明]](やすあき、昭和5年8月15日生)、次男・[[佐賀雄美]](いさみ、昭和7年7月13日生)がいる。
*8歳で父と死別。八幡浜商中退。<ref>『[[大地の母]] 下巻』707頁</ref>
 
*大正7年([[1918年]])10月10日、綾部に移住。<ref>『[[大地の母]] 下巻』725頁</ref>
 
*大正11年([[1922年]])10月、出口家に入り、宇知麿と名付けられる<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』713頁</ref>。「内を丸く守れよ」という意味で[[王仁三郎]]が名付けた。<ref>『[[第三次大本事件の真相]]』187頁</ref>
 
*大正13年([[1924年]])節分、[[八重野]]と結婚。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』718頁</ref>
 
*二代教主(澄子)と三代教主(直日)の教主補佐となる。<ref>『[[第三次大本事件の真相]]』187頁</ref>
 
*昭和48年([[1973年]])5月6日(旧4月4日)帰幽。70歳。
 
 
 
子に[[和明]](やすあき)、[[雄美]](いさみ)がいる。
 
 
 
  
 
== 脚注 ==
 
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2023年11月5日 (日) 22:18時点における最新版

出口宇知麿(でぐち うちまる)(1903~1973年)は王仁三郎の三女・八重野の夫。教主補佐、愛善苑委員長、大本総長などを歴任。また世界連邦運動においては、世界連邦建設同盟副会長、世界連邦世界協会理事などを務めた。本名は伊佐男(いさお)。宇知麿は大本名宇知丸とも書く。旧姓・佐賀。(佐賀伊佐男、出口伊佐男)

略年表

(文献によって年月日が多少異なる場合がある)

  • 明治36年(1903年)1月15日(旧12月17日)愛媛県喜多村常盤町(現在の大洲市)で生まれる。父・佐賀亀吉、母・シナヨの長男。4歳年上の姉・トモヱがいる。[1] [2]
  • 8歳で父と死別。[3]
  • 大正7年(1918年)8月23日、大本へ初参拝。[1]
  • 同年10月、愛媛県立八幡浜商業学校本科一年中退。[1]
  • 同年10月10日、綾部に移住。[4]
  • 大正13年(1924年)1月31日、出口家に入籍[5]。「内を丸く守れよ」という意味で王仁三郎が「宇知丸」と命名[6]
  • 同年2月4日(節分)、八重野と結婚する。[7] [8]
  • 同年4月7日、二代教主(澄子)と三代教主(直日)の教主補佐となる。[9]
  • 昭和2年(1927年)4月2日、名前を「宇知丸」から「宇知麿」に改名。呼び方は従来通り「うちまる」。[10] [11]
  • 昭和3年(1928年)2月5日、教主補佐を辞任。[7] [12](2月1日に三代直日と日出麿が結婚、6日に日出麿が教主補となる[7]
  • 昭和10年(1935年)12月8日、第二次大本事件勃発。昭和神聖会東京本部で検挙される。
  • 昭和17年(1942年)8月7日、王仁三郎・澄子と共に、保釈出所。
  • 昭和21年(1946年)2月14日、愛善苑(2月7日発足)の委員長に就任。
  • 昭和24年(1949年)10月29日、教団名が大本愛善苑に改称。その総長に就任。
  • 昭和27年(1952年)4月1日、教団名が大本に改称。総長となる。
  • 昭和33年(1958年)4月1日、大本総長を辞任。
  • 昭和48年(1973年)5月6日(旧4月4日)帰幽。享年70歳。

子に長男・出口和明(やすあき、昭和5年8月15日生)、次男・佐賀雄美(いさみ、昭和7年7月13日生)がいる。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 松のひびき』p156「略年譜」
  2. 大地の母 下巻』707頁
  3. 大地の母 下巻』707頁
  4. 大地の母 下巻』725頁
  5. 『松のひびき』では13年1月31日に入籍(つまり養子)とあるが、『大本七十年史 上』「新機運の動向#」713頁では「同一一年一〇月出口家にはいって」と書いてある。
  6. 第三次大本事件の真相』187頁 ただし命名時期は不明
  7. 7.0 7.1 7.2 大本年表
  8. 大本七十年史 上巻』718頁
  9. 「大本年表」では4月7日、『松のひびき』では4月6日。
  10. 真如の光』昭和2年(1927年)4月15日号p.83
  11. ただし「大本年表」『松のひびき』では昭和3年2月1日に改名したと記されている。
  12. 第三次大本事件の真相』187頁