「彰徳殿」の版間の差分
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− | + | * [[第二次大本事件]]で綾部の神苑の所有権が綾部町にあったときに、綾部町が旧[[五六七殿]]の隣に'''武徳殿'''(ぶとくでん)という武道場を建てて使用していた。戦後、神苑が大本に返還されたときに、その建物は大本に寄付された。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6523|土地返還訴訟の解決}}」</ref> | |
+ | * [[王仁三郎]]は武徳殿を「彰徳殿」と命名した。<ref name="B195402c7121">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7121|新生のまつり}}」</ref> | ||
+ | * 大きさは、間口と奥行ともに約22mの広間があるだけだった(後に造築)。<ref name="B195402c7121" /> | ||
+ | * 礼拝場と事務所等を兼ねていた。 | ||
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+ | * 同年12月8日、彰徳殿で[[第二次大本事件解決奉告祭]]が執り行われた。 | ||
+ | * 昭和22年(1947年)2月4日、彰徳殿で[[節分祭]]が執行される(事件後初の節分祭)。<ref name="oomoto_nenpyou">「大本年表」</ref> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7221|本部と地方のうごき}}」</ref> | ||
+ | * 昭和23年(1948年)2月2日、彰徳殿で瑞霊真如聖師([[出口王仁三郎]])の本葬が行われる。<ref name="oomoto_nenpyou" /> | ||
+ | * 同年9月17日、祖霊社が[[要荘]]から彰徳殿へ遷座。<ref name="oomoto_nenpyou" /> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7422|造営と祭事}}」</ref> | ||
+ | * 昭和27年(1952年)4月10日、彰徳殿で二代教主([[出口澄子]])の本葬が行われる。<ref name="oomoto_nenpyou" /> | ||
+ | * 昭和28年(1953年)2月3日、彰徳殿から[[みろく殿]]へ大神様が遷座。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c8211|みろく殿の完成}}」</ref> | ||
+ | * 昭和32年(1957年)10月15日、祖霊社が彰徳殿から[[みろく殿]]の大神様神床の下座に遷される。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c8242|祭儀}}」</ref> | ||
− | == | + | == 脚注 == |
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2023年11月24日 (金) 20:55時点における最新版
彰徳殿(しょうとくでん)は、綾部の神苑にあった建物。
概要
- 第二次大本事件で綾部の神苑の所有権が綾部町にあったときに、綾部町が旧五六七殿の隣に武徳殿(ぶとくでん)という武道場を建てて使用していた。戦後、神苑が大本に返還されたときに、その建物は大本に寄付された。[1]
- 王仁三郎は武徳殿を「彰徳殿」と命名した。[2]
- 大きさは、間口と奥行ともに約22mの広間があるだけだった(後に造築)。[2]
- 礼拝場と事務所等を兼ねていた。
略年表
- 同年12月8日、彰徳殿で第二次大本事件解決奉告祭が執り行われた。
- 昭和22年(1947年)2月4日、彰徳殿で節分祭が執行される(事件後初の節分祭)。[3] [4]
- 昭和23年(1948年)2月2日、彰徳殿で瑞霊真如聖師(出口王仁三郎)の本葬が行われる。[3]
- 同年9月17日、祖霊社が要荘から彰徳殿へ遷座。[3] [5]
- 昭和27年(1952年)4月10日、彰徳殿で二代教主(出口澄子)の本葬が行われる。[3]
- 昭和28年(1953年)2月3日、彰徳殿からみろく殿へ大神様が遷座。[6]
- 昭和32年(1957年)10月15日、祖霊社が彰徳殿からみろく殿の大神様神床の下座に遷される。[7]