「本宮山神殿」の版間の差分

編集の要約なし
 
(同じ利用者による、間の5版が非表示)
3行目: 3行目:


'''本宮山神殿'''(ほんぐうやましんでん)とは、大正時代に[[本宮山]]の山頂に建てられた神殿のこと。[[第一次大本事件]]によって取り壊された。
'''本宮山神殿'''(ほんぐうやましんでん)とは、大正時代に[[本宮山]]の山頂に建てられた神殿のこと。[[第一次大本事件]]によって取り壊された。
== 外観 ==
{{inyou|本宮山上の本殿は神明造りで、すべて最良の飛州桧材をもちい、屋根は千石萱の太古ぶきであった。建物の高さは三一尺(9.4m)、その正面は巾一六尺二寸(4.9m)、その側面は一二尺六寸(3.8m)よりなる。左右の脇社は高さ二四尺(7.3m)・正面八尺(2.4m)・側面七尺(2.1m)で、本殿と脇社とは高欄つきの廻廊でつながれている。拝殿は伽藍づくりで、建物の高さ三七尺(11.2m)・正面の間口七間(12.7m)・側面も七間であって、本殿と拝殿のあいだには中門と透し塀がたてられていて、その全体の構造と配置は、きわめて荘厳清麗の気をただよわしていた。| 『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c3233|本宮山神殿破壊}}」 }}


== 略年表 ==
== 略年表 ==
13行目: 16行目:
* 12月5日、拝殿の上棟式。
* 12月5日、拝殿の上棟式。
'''【大正10年(1921年)】'''
'''【大正10年(1921年)】'''
* 2月12日、第一次大本事件。
* 2月12日、[[第一次大本事件]]。
* 7月27日、神示により本宮山神殿に[[御三体の大神]]様の仮鎮座祭を執行。斎主は三代直日。
* 7月27日、神示により本宮山神殿に[[御三体の大神]]様の仮鎮座祭を執行。斎主は三代直日。
* 10月11日、王仁三郎は京都府庁で本宮山神殿取毀命令を受ける。
* 10月11日、王仁三郎は京都府庁で本宮山神殿取毀命令を受ける。
19行目: 22行目:
* 10月18日(旧9月18日)、本宮山神殿取毀につき奉告祭を行い、大神様の御昇神を奏上。斎主は三代直日。一方、王仁三郎は[[松雲閣]]で[[霊界物語]]の口述を開始する。
* 10月18日(旧9月18日)、本宮山神殿取毀につき奉告祭を行い、大神様の御昇神を奏上。斎主は三代直日。一方、王仁三郎は[[松雲閣]]で[[霊界物語]]の口述を開始する。
* 10月20日(旧9月20日)、本宮山神殿の取毀工事が始まる。何鹿郡の在郷軍人3千余人が動員される。
* 10月20日(旧9月20日)、本宮山神殿の取毀工事が始まる。何鹿郡の在郷軍人3千余人が動員される。
* 10月27日、取毀完了。同日より五六七殿にて夕拝後に霊界物語の拝読を連日行うこととなる。
* 10月27日、取毀完了。同日より[[五六七殿]]にて夕拝後に霊界物語の拝読を連日行うこととなる。


'''【取毀後】'''
'''【取毀後】'''
* 大正13年(1924年)本宮山神殿の中門を、神苑の西門として再建した。塀も再建した。 →「[[西門]]」
* 昭和5年(1930年)4月1日に完成した[[穹天閣]]は、取り壊された本宮山神殿の材料を用いて建てられた。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5132|本部の体制}}」</ref>
* 昭和5年(1930年)4月1日に完成した[[穹天閣]]は、取り壊された本宮山神殿の材料を用いて建てられた。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5132|本部の体制}}」</ref>
* 弥仙山の「中の宮」([[於成神社]])も、本宮山神殿の材料で作られた。建築時期は不明。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1632|弥仙山}}」237頁</ref>
* 弥仙山の「中の宮」([[於成神社]])も、本宮山神殿の材料で作られた。建築時期は不明。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1632|弥仙山}}」237頁</ref>
32行目: 36行目:
本宮山神殿は大正9年(1920年)4月から造営が始まった。大正10年2月12日に[[第一次大本事件]]が勃発したが、その後も造営は続けられ、7月に仮鎮座祭が執行された。
本宮山神殿は大正9年(1920年)4月から造営が始まった。大正10年2月12日に[[第一次大本事件]]が勃発したが、その後も造営は続けられ、7月に仮鎮座祭が執行された。


しかし10月11日、当局は建てられたばかりのこの神殿を取り毀せ<ref>当時の文献では「取り壊し」「取壊」ではなく「取り毀し」「取毀」と書かれている場合が多い。意味はどちらも同じ。</ref>と王仁三郎に命じた。表向きの理由は法令違反である。[[明治五年大蔵省布達第百十八号|明治5年(1872年)の大蔵省布達]]と、[[大正二年内務省令第六号|大正2年(1913年)の内務省令]]に違反するため今月31日までに取り壊せ、もし命令に従わない場合は当局の手によって取り壊し、その費用を大本から徴収する、と有無を言わせぬ強圧的な姿勢で当局は命じた。
しかし10月11日、当局は建てられたばかりのこの神殿を取り毀せ<ref>当時の文献では「取り壊し」「取壊」ではなく「取り毀し」「取毀」または「取り毀(こぼ)ち」等と書かれている場合が多い。意味はどちらも同じ。</ref>と王仁三郎に命じた。表向きの理由は法令違反である。[[明治五年大蔵省布達第百十八号|明治5年(1872年)の大蔵省布達]]と、[[大正二年内務省令第六号|大正2年(1913年)の内務省令]]に違反するため今月31日までに取り壊せ、もし命令に従わない場合は当局の手によって取り壊し、その費用を大本から徴収する、と有無を言わせぬ強圧的な姿勢で当局は命じた。


大切な神殿を信者の手で破壊することはできない。18日に急遽、本宮山神殿の告別式と昇神祭が行われ、破却は当局の手に委ねることになった。
大切な神殿を信者の手で破壊することはできない。18日に急遽、本宮山神殿の告別式と昇神祭が行われ、破却は当局の手に委ねることになった。