「十ケ月暦」の版間の差分
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昭和5年(1930年)国際連盟は次の3種の改暦案を提起した。 | 昭和5年(1930年)国際連盟は次の3種の改暦案を提起した。 | ||
* | * 【第一案】 現行暦を基礎とし、毎月の日数をなるべく均一にする。(8月から1日を2月に移すことで、1-3月を91日とし、また半期の日数を前半期182日、後半期183日とする) | ||
* | * 【第二案】 暦日と週日との関係を固定するため、年に1日か2日の週外日を設ける。月数は従来通り12とする。(四半期ごとに30日の月を2ヶ月、31日の月を1ヶ月とする。平年は余日1日を加え、閏年には更に1日の余日を加える。この余日は週日外とする。これによって毎年いつでもx月x日はx曜日と、暦日と週日が固定化され、カレンダーが毎年同じ「恒久暦」となる) | ||
* | * 【第三案】 第二案と同じく週外の日を設け、1ヶ月を4週とし、1年を13ヶ月とする。(各月を4週=28日とする、つまり1年=364日となる。平年は余日を1日、閏年には更に余日を1日加える。この余日は週日外とする。この案も「恒久暦」である) | ||
王仁三郎が「十ケ月暦」で言及している〈来る十月(昭和六年)ゼネバ(注・ジュネーブ)に於て開催される国際連盟に提出すべき改暦案問題〉とは、おそらく昭和6年(1931年)10月12日から24日までジュネーブの国際連盟で開催された第四回交通総会における議題だと思われる<ref>「移動祭日の固定及びグレゴリオ暦簡易化の経済的及び社会的見地に基づく便宜得失の審議」のことではないかと思われる。『改暦問題』52~53頁・33頁参照{{ndldl|1210948/1/32}}</ref>。 | 王仁三郎が「十ケ月暦」で言及している〈来る十月(昭和六年)ゼネバ(注・ジュネーブ)に於て開催される国際連盟に提出すべき改暦案問題〉とは、おそらく昭和6年(1931年)10月12日から24日までジュネーブの国際連盟で開催された第四回交通総会における議題だと思われる<ref>「移動祭日の固定及びグレゴリオ暦簡易化の経済的及び社会的見地に基づく便宜得失の審議」のことではないかと思われる。『改暦問題』52~53頁・33頁参照{{ndldl|1210948/1/32}}</ref>。 | ||
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* 立春を元日とする。(節分が大晦日になる) | * 立春を元日とする。(節分が大晦日になる) | ||
* 1月の祭日を第1祭日、2月の祭日を第2祭日…と呼ぶ。閑日も順に第1閑日、第2閑日…と呼ぶ。 | * 1月の祭日を第1祭日、2月の祭日を第2祭日…と呼ぶ。閑日も順に第1閑日、第2閑日…と呼ぶ。 | ||
王仁三郎は「十ケ月暦」の中で、次のようなことも述べている。 | 王仁三郎は「十ケ月暦」の中で、次のようなことも述べている。 | ||
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* 明治31年(1898年)にすでにこの十ケ月暦の大意を発表しておいた。 | * 明治31年(1898年)にすでにこの十ケ月暦の大意を発表しておいた。 | ||
* 国際連盟では三つの改暦案のうち第三案の十三ヶ月案が採用されるであろう。世界は一度はその暦法を使うことになるが、しかし長くは続かず、やがて、神示による自分の案(十ケ月暦)が採用されるはずである。 | * 国際連盟では三つの改暦案のうち第三案の十三ヶ月案が採用されるであろう。世界は一度はその暦法を使うことになるが、しかし長くは続かず、やがて、神示による自分の案(十ケ月暦)が採用されるはずである。 | ||
== 問題点 == | |||
十ケ月暦は恒久暦であり、グレゴリオ暦の4つの欠点が全て解決されている。しかし1年を10ヶ月にするため、四半期を計算するのに不便である。 | |||
立春を1月1日にするということは、立秋は6月1日となる。また、立夏は3月半ば(18日頃?)となり、立冬は8月半ば(18日頃?)となる。夏至は4月下旬(34日頃?)、冬至は9月下旬(34日頃?)となる。天保暦からグレゴリオ暦への改暦で起きた問題と同様、月と季節感が現在とは全く異ることになる。 | |||
== 反響 == | == 反響 == | ||
昭和6年(1931年)9月の王仁三郎の日記『[[更生日記]] 九の巻』に、王仁三郎が発表した十ケ月暦について世間の反響が採録されており、それを報道した新聞記事が転載されている。 | 昭和6年(1931年)9月の王仁三郎の日記『[[更生日記]] 九の巻』に、王仁三郎が発表した十ケ月暦について世間の反響が採録されており、それを報道した新聞記事が転載されている。<ref>『[[神の国 (1921)|神の国]]』昭和6年(1931年)10月号、94頁「聖都消息」にそれに関する記事がある。〈曩に国際連盟改暦委員会提唱の三種の改暦案に就て新聞紙上を賑はして居ました。去る五日催された京都中外日報主催の改暦座談会に大本からは宇知麿様が出席、聖師案改暦十ヶ月説を発表されました。識者の注目を引くところ非常にあつたと見えて、其後各地の新聞に大本の改暦案として掲載されました。この案の詳細は前号神の国「玉鏡」に示されてあります。〉</ref> | ||
9月5日に[[中外日報]] | 9月5日に[[中外日報]]社(京都)主催により大勢の宗教関係者が招かれて暦法改正座談会が開かれた。記事の見出しに〈改暦案に対する外務当局の怠慢を攻撃し大勢、尚早論に傾く〉と書かれてあり、国際連盟の改暦案に否定的な集まりであった。この座談会に出席した[[出口宇知麿]]は大本には独自の改暦案があると発言した。〔[[中外日報]]9月8日報道、『[[更生日記]] 九の巻』71頁、{{ndldl|1137614/1/49}}〕 | ||
9月9日、[[丹波毎日新聞]](綾部)は王仁三郎の十ケ月暦を具体的に紹介し、〈該案は人類愛善会欧羅巴(注・ヨーロッパ)本部を通じて欧米各国の新聞紙上に発表しセンセーシヨンを捲き起してゐる〉〈因に出口氏は本案は神示の暦法として国際的に統一さるるものとの固き自信を有してゐる〉と報道している。〔丹波毎日新聞9月9日報道、『[[更生日記]] 九の巻』75頁、{{ndldl|1137614/1/52}}〕 | |||
9月10日、[[北国夕刊新聞]](北陸)、鹿児島新聞、丹州時報(舞鶴)でも王仁三郎の十ケ月暦が報道されたようである。〔『[[更生日記]] | 9月10日、[[北国夕刊新聞]](北陸)、鹿児島新聞、丹州時報(舞鶴)でも王仁三郎の十ケ月暦が報道されたようである。〔『[[更生日記]] 九の巻』81頁、{{ndldl|1137614/1/55}}〕 | ||
9月11日、[[大正日日新聞]](この当時はすでに大本から離れていた)、大阪経済新聞で十ケ月暦が報道。〔『[[更生日記]] | 9月11日、[[大正日日新聞]](この当時はすでに大本から離れていた)、大阪経済新聞で十ケ月暦が報道。〔『[[更生日記]] 九の巻』83頁、{{ndldl|1137614/1/56}}、同89頁、{{ndldl|1137614/1/59}}〕 | ||
9月13日、中外日報は十ケ月暦の内容を報道(9月8日の報道では内容まで報道していなかった)。 | 9月13日、中外日報は十ケ月暦の内容を報道(9月8日の報道では内容まで報道していなかった)。 | ||
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