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出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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同年10月19日、それまで交詢社ビル(京橋区銀座)の5階5号室に事務所があった[[昭和神聖会]]総本部を、愛住町に移すことを決定。同月27日に移転する。<ref name="B195502c22051" />
同年10月19日、それまで交詢社ビル(京橋区銀座)の5階5号室に事務所があった[[昭和神聖会]]総本部を、愛住町に移すことを決定。同月27日に移転する。<ref name="B195502c22051" />


* <kbwp>交詢社</kbwp>:明治13年(1880年)に福沢諭吉ら慶應義塾関係者によって設立された日本で最初の社交クラブ。
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* [https://edo.amebaownd.com/posts/3349879 【四谷①011】四谷愛住町] - 江戸町巡り
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三島由紀夫の生家は四谷永住町2番地(現在の新宿区四谷四丁目22番地)<ref>住所は新旧どちらも松本徹『三島由紀夫』(1990年、河出書房新社)p12による。同番地は多数に分筆されているが号は不明。</ref>にあった。昭和神聖会総本部があった愛住町76番地とは直線距離で約300mほどのところである。三島由紀夫は大正14年(1925年)生まれなので、昭和10年(1935年)当時は10歳くらいであった。
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* [https://edo.amebaownd.com/posts/3350030 【四谷①024】四谷永住町] - 江戸町巡り
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[[人類愛善新聞]]では、これを人類愛善運動の「東京進出」「中央進出」だと報じている<ref>『人類愛善新聞』昭和5年(1930年)9月23日号p1</ref>。また王仁三郎はこの年(月日不明)「神業を東にうつす大本は天地の神のふかき経綸」と歌を詠んでいる<ref>『[[大本関東教区七十年史]]』p116</ref>。
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* [https://edo.amebaownd.com/posts/3350167 【四谷①032】四谷霞岳町] - 江戸町巡り
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大正15年(1926年)5月21日、確信会は王仁三郎の命名により「[[東京愛信会]]」と改称する。また場所も東京市麹町区山元町一丁目三番地に移った。<ref>『[[大本関東教区七十年史]]』p66</ref>
大正15年(1926年)5月21日、確信会は王仁三郎の命名により「[[東京愛信会]]」と改称する。また場所も東京市麹町区山元町一丁目三番地に移った。<ref>『[[大本関東教区七十年史]]』p66</ref>


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* [https://edo.amebaownd.com/posts/3349925 【四谷①015】四谷南寺町] - 江戸町巡り
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* [https://edo.amebaownd.com/posts/3349943 【四谷①017】四谷須賀町] - 江戸町巡り
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* [https://edo.amebaownd.com/posts/3350052 【四谷①026】元鮫河橋町] - 江戸町巡り
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== 外部リンク ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

2024年11月29日 (金) 19:28時点における最新版

四谷愛住町の昭和神聖会総本部。

四谷(よつや)は、東京の地名。旧・東京市四谷区には、(1) 愛住町(あいずみちょう)に昭和神聖会総本部が、(2) 霞ヶ丘町(かすみがおかまち)に人類愛善新聞社が、(3) 須賀町(すがちょう)の須賀神社確信会が、(4) 鮫河橋(さめがはし)に中村孝道が住んでいた産霊舎があった。

愛住町

四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の大正元年(1912年)頃の地図。
四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の昭和7年(1932年)頃の地図。
四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の昭和16年(1941年)頃の地図。

大本の拠点となった四谷愛住町76番地の建物は、信徒の梅田きよの大きな二階建ての別荘である[1]。ここが昭和6年(1931年)以降、大本の東京における活動の重要な拠点の一つとなった。

昭和6年(1931年)4月か5月頃、人類愛善会東洋本部を霞ヶ丘町から愛住町に移す。[2]

同年8月25日、人類愛善会総本部の東京事務所を、東洋本部と同じく愛住町に移す。[3]

昭和9年(1934年)8月31日、昭和青年会本部を亀岡から愛住町に移す。[4]

同年10月19日、それまで交詢社ビル(京橋区銀座)の5階5号室に事務所があった昭和神聖会総本部を、愛住町に移すことを決定。同月27日に移転する。[4]

三島由紀夫の生家

三島由紀夫の生家は四谷永住町2番地(現在の新宿区四谷四丁目22番地)[5]にあった。昭和神聖会総本部があった愛住町76番地とは直線距離で約300mほどのところである。三島由紀夫は大正14年(1925年)生まれなので、昭和10年(1935年)当時は10歳くらいであった。


霞ヶ丘町

四谷霞ヶ丘町16番地(赤矢印)近辺の昭和7年(1932年)頃の地図。

昭和5年(1930年)9月、人類愛善会東洋本部[6]人類愛善新聞社が亀岡から四谷区霞ヶ丘町16番地(日本青年館の西隣)[7]に移転し、人類愛善新聞は10月からそこで発行されるようになった。[8] [9] [10]

人類愛善新聞では、これを人類愛善運動の「東京進出」「中央進出」だと報じている[11]。また王仁三郎はこの年(月日不明)「神業を東にうつす大本は天地の神のふかき経綸」と歌を詠んでいる[12]

須賀町

須賀神社境内に置かれた確信会の事務所。

大正8年(1919年)10月、王仁三郎は鎌倉や東京を巡教した。それを機に「確信会」が10月19日に結成され、四谷区南寺町(現・須賀町)の須賀神社境内に事務所が置かれた。初代会長には浅野正恭が就任した。この確信会が東京における大本宣教の拠点となる。[13] [14]

大正15年(1926年)5月21日、確信会は王仁三郎の命名により「東京愛信会」と改称する。また場所も東京市麹町区山元町一丁目三番地に移った。[15]


鮫河橋

言霊或問』の奥付。「江戸四ッ谷鮫ヶ橋」と記してある。

中村孝道は鮫河橋の「産霊舎」というところに住んでいたことがあり、天保5年(1834年)9月そこで『言霊或問』を書いている。

鮫河橋(鮫ヶ橋)という地名は現在は残っていない。現在の若葉二丁目~同三丁目~南元町の辺りだが、範囲が広く、そのどの辺りに産霊舎があったのかは不明。

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 大本関東教区七十年史』p108
  2. 大本関東教区七十年史』p131:「さらに日出麿先生は、四月二八日の午後九時過ぎ、東京駅に直日様とともにお着きになり、紫雲郷別院の開院式を中心に約一ヵ月滞在された。 駅からただちに和田堀の紫雲郷別院にお入り。翌日、産土神なる大宮八幡宮に参拝。以後、身体の各部に鈍痛をお感じになりながらご活動がはじまる。この間、人類愛善会の東洋本部が四谷愛住町七六に移る」
  3. 大本七十年史 下巻』「梅花運動#」:「一方、同じ八月二五日、人類愛善会では、東京市四谷区愛住町にある東洋本部に、総本部の東京事務所をおき、そこで総本部の事務をとることとし、分会・支部の統轄機関として連合会を設け、本部・地方の組織体制が整備強化された」
  4. 4.0 4.1 昭和神聖会総本部日記 昭和9年#
  5. 住所は新旧どちらも松本徹『三島由紀夫』(1990年、河出書房新社)p12による。同番地は多数に分筆されているが号は不明。
  6. 人類愛善会東洋本部は翌6年に愛住町に移転。
  7. 人類愛善新聞』昭和5年(1930年)10月3日号p1:社告「今般本紙を東京に移転、本社の所在地も決定致しました。(略)一、本紙新発行所─東京市四谷区霞ケ丘町十六番地(明治神宮外苑日本青年館西隣) 一、九月廿一日より新発行所に於て一切の業務を開始しました。」
  8. 大本七十年史 下巻』「満州巡教と世界紅卍字会#」:「一九三〇(昭和五)年の四月一〇日には、人類愛善会総裁補に出口日出麿が就任し、さらにこの年の九月には、東洋本部および人類愛善新聞社を東京の四谷区霞ヶ丘町に移転し、「人類愛善新聞」は一〇月から東京で発行することになり、ここにいよいよ東京進出をむかえることになったのである」
  9. 人類愛善会総本部は亀岡。
  10. 大本年表」によると昭和5年(1930年)9月4日(旧7月12日)聖師誕生祭の時に移転が決定されたようである。
  11. 『人類愛善新聞』昭和5年(1930年)9月23日号p1
  12. 大本関東教区七十年史』p116
  13. 大本七十年史 上巻』「内地宣教の展開#」:「王仁三郎の東行を期として、東京では四谷区南寺町七番地(須賀神社「天王さま」境内)に確信会が結成され、一〇月一九日には発会式がとりおこなわれた。そしてその初代会長には浅野正恭が就任した。この確信会が東京における大本宣教の拠点となるのである」
  14. 大本関東教区七十年史』p43:「この大正八年の出口聖師のご東行を機として、東京では四谷区南寺町七番地(須賀神社〝天王さま〟境内)に「確信会」(のちに愛信会)が結成され、一〇月一九日には発会式を執行、大神さまを奉斎した。確信会(写真)は東京およびその付近に住む有力な大本信者の集いで、相互の信仰の向上を図り、親睦を深め、本部との連絡を円滑にしようとするもの。その初代会長には浅野正恭、副会長には鉄道院技師の長屋修吉工学士が推された。例祭は毎一九日に、毎日曜には談話会を催すこととした。以後、この確信会が果たす東京での活躍は大きく、あらゆる面で大本の重要の拠点となったばかりでなく、これらの人脈を通して多くの人のつながりが展開していった。」
  15. 大本関東教区七十年史』p66