「皆神山」の版間の差分

 
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== 皆神神社 ==
== 皆神神社 ==
[[ファイル:皆神神社-昭和4年6月3日.jpg|thumb|昭和4年6月3日、王仁三郎が皆神山に登った時の記念写真。出速雄神社前にて。]]
奈良時代の養老2年(718年)に出速雄命(いずはやおのみこと)を祭る出速雄神社が創建された。中世に熊野権現を勧請。そのため「熊野出速雄神社」とも呼ばれる。ただし境内で一番大きい社殿は摂社の「侍従神社」(皆神山の修験道を完成させた侍従天狗坊を祭る)で、向かってその右側奥に「熊野出速雄神社」が、さらにその右側奥に大本が献納した「富士浅間神社」がある。
奈良時代の養老2年(718年)に出速雄命(いずはやおのみこと)を祭る出速雄神社が創建された。中世に熊野権現を勧請。そのため「熊野出速雄神社」とも呼ばれる。ただし境内で一番大きい社殿は摂社の「侍従神社」(皆神山の修験道を完成させた侍従天狗坊を祭る)で、向かってその右側奥に「熊野出速雄神社」が、さらにその右側奥に大本が献納した「富士浅間神社」がある。


* [http://www.minakami-jinja.jp/about.html 由緒] - 皆神神社公式サイト
* [http://www.minakami-jinja.jp/about.html 由緒] - 皆神神社公式サイト
* [http://www.minakami-jinja.jp/facilities.html 境内図] - 皆神神社公式サイト
* [http://www.minakami-jinja.jp/facilities.html 境内図] - 皆神神社公式サイト
* <wp>出早雄命</wp>
* {{wp|出早雄命}}


== 王仁三郎との関わり ==
== 王仁三郎との関わり ==
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* 第二次大戦末期の大本営移転(首都移転)は、王仁三郎の[[経綸]]によるもの。<ref name="kake0525">『[[新月の光]]』0525「御避難所」:「陛下の御避難所は信州皆神山に用意出来ている。道路も立派に出来ているのである。王仁が経綸に行った。」</ref> <ref name="kake0632">『[[新月の光]]』0632「大石凝先生との初対面」:「大石凝先生には長沢先生の家の帰り道、汽車の中で会ったので、王仁の事を話したら不思議な事だと言って一度来いと言われて、先生と信州の皆神山へ行ったのである。そうして先生は皆神山に陛下がおいでになると言われたので、王仁は神様に綾部と聞いていると言ったら、一番は皆神山だと言われた。」</ref>
* 第二次大戦末期の大本営移転(首都移転)は、王仁三郎の[[経綸]]によるもの。<ref name="kake0525">『[[新月の光]]』0525「御避難所」:「陛下の御避難所は信州皆神山に用意出来ている。道路も立派に出来ているのである。王仁が経綸に行った。」</ref> <ref name="kake0632">『[[新月の光]]』0632「大石凝先生との初対面」:「大石凝先生には長沢先生の家の帰り道、汽車の中で会ったので、王仁の事を話したら不思議な事だと言って一度来いと言われて、先生と信州の皆神山へ行ったのである。そうして先生は皆神山に陛下がおいでになると言われたので、王仁は神様に綾部と聞いていると言ったら、一番は皆神山だと言われた。」</ref>
* 皆神山は数十万年前の噴火によって出来た噴火口の跡にある。噴火口に出来た湖水の上に浮き出ていたので「水上山」と呼ばれるようになった。<ref>{{kgm|413|噴火口と蓮華台}}:「本宮山、亀岡、皆神山は共に噴火口の跡にあるので蓮華台をなして居るのである。(略)水の上に浮き出て居つたから、水上山の名称が起つたのである。」</ref>
* 皆神山は数十万年前の噴火によって出来た噴火口の跡にある。噴火口に出来た湖水の上に浮き出ていたので「水上山」と呼ばれるようになった。<ref>{{kgm|413|噴火口と蓮華台}}:「本宮山、亀岡、皆神山は共に噴火口の跡にあるので蓮華台をなして居るのである。(略)水の上に浮き出て居つたから、水上山の名称が起つたのである。」</ref>
* 霊界物語には「皆神山」という言葉は出て来ない。
* [[霊界物語]]に「皆神山」という言葉は出ないが、[[第79巻]]・[[第80巻]]に同音異字の「[[水上山]](みなかみやま)」が登場する。
* 昭和31年(1956年)9月、[[皆神神社]]境内に大本関係者によって木花咲耶姫神社(富士浅間神社)が建立された。<ref name="B195402c8142">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c8142|巡教}}」内「信州巡教と皆神山登山」:「一九五四(昭和二九)年九月、教主による皆神山登山があり(略)'''一九五六(昭和三一)年九月には長野主会と信越の宣信徒が協力して、皆神山に木花咲耶姫神社社殿が新築'''されたので、ふたたび教主の登山があった。一五日に亀岡をたって長野市に一泊し、一六日の完成祭に臨席した。地元松代町では商工会・氏子総代・松代大本会など全町をあげて協力し、祭典には八田町長・小林町会議長・町民・信徒等八〇〇余人が参拝、春原宮司が'''教主染筆の神体を、旧社殿の木花咲耶姫の木像とともに鎮祭'''した。祭典後、教主は松代町への社殿引渡し式をすまして、上田市へたちより、一九日に帰亀をみた。」</ref>
* 昭和31年(1956年)9月、皆神神社境内に大本関係者によって木花咲耶姫神社(富士浅間神社)が建立された。<ref name="B195402c8142">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c8142|巡教}}」内「信州巡教と皆神山登山」:「一九五四(昭和二九)年九月、教主による皆神山登山があり(略)'''一九五六(昭和三一)年九月には長野主会と信越の宣信徒が協力して、皆神山に木花咲耶姫神社社殿が新築'''されたので、ふたたび教主の登山があった。一五日に亀岡をたって長野市に一泊し、一六日の完成祭に臨席した。地元松代町では商工会・氏子総代・松代大本会など全町をあげて協力し、祭典には八田町長・小林町会議長・町民・信徒等八〇〇余人が参拝、春原宮司が'''教主染筆の神体を、旧社殿の木花咲耶姫の木像とともに鎮祭'''した。祭典後、教主は松代町への社殿引渡し式をすまして、上田市へたちより、一九日に帰亀をみた。」</ref>
* 昭和46年(1971年)春、皆神神社境内に王仁三郎の歌碑が建立された。「地質学上世界の中心山脈の十字形せる珍の神山」「天霊の聖地に些しも違はざる尊き神山皆神の山」の二首が刻まれている。
* 昭和46年(1971年)春、皆神神社境内に王仁三郎の歌碑が建立された。「地質学上世界の中心山脈の十字形せる珍の神山」「天霊の聖地に些しも違はざる尊き神山皆神の山」の二首が刻まれている。
* 昭和47年(1972年)皆神神社境内に大本によって石の宮(富士浅間神社)が造営された。同年12月3日に遷座祭<ref>『[[愛善苑 (機関誌)]]』昭和48年(1973年)1月号、13頁</ref>。翌48年4月29日に完成奉告祭が執行され、皆神神社へ石の宮と鳥居が献納された<ref>『[[愛善苑 (機関誌)]]』昭和48年(1973年)6月号、10頁</ref>。 →「[[#富士浅間神社]]」
* 平成16年(2004年)9月26日、皆神神社境内に三代教主・[[出口直日]]の歌碑が建立された。「みすゝかるしなのゝくにの神山にともらつとひて世をいのらなむ」この歌は昭和29年(1954年)9月26日に皆神山山頂で執行された平和祈願祭に際して詠んだ歌である。
* 平成16年(2004年)9月26日、皆神神社境内に三代教主・[[出口直日]]の歌碑が建立された。「みすゝかるしなのゝくにの神山にともらつとひて世をいのらなむ」この歌は昭和29年(1954年)9月26日に皆神山山頂で執行された平和祈願祭に際して詠んだ歌である。


== 富士浅間神社 ==
== 富士浅間神社 ==
[[成尾陽]]「暁の大地」によると、皆神神社境内にある富士浅間神社は石の宮で、[[神聖神社]]の"写し"だという。このお宮は昭和48年(1973年)に大本から献納・建立され、三代教主による「大本皇大神」の真筆と、もともと皆神神社に祭られていた木花咲耶姫命の木製の神像が奉斎された<ref>ただし『大本七十年史』では昭和31年(1956年)9月に建立されと記されている。</ref> <ref name="B195402c8142" />。その2年ほど前に機関誌上で、穴太の[[瑞泉苑]]に石の宮([[神聖神社]])を再建すると発表されたが、それが何らかの理由で皆神山に建てられたのだという。理由は不明。<ref>『[[みろくのよ]]』令和3年(2021年)6月号、成尾陽「暁の大地 第138回」、43頁</ref>
[[成尾陽]]「暁の大地」<ref>『[[みろくのよ]]』令和3年(2021年)6月号、成尾陽「暁の大地 第138回」、43頁</ref>によると、皆神神社境内にある富士浅間神社は石の宮で、[[神聖神社]]の"写し"だという。このお宮は昭和48年(1973年)に大本から献納・建立され、三代教主による「大本皇大神」の真筆と、もともと皆神神社に祭られていた木花咲耶姫命の木製の神像が奉斎された<ref>ただし『大本七十年史』では昭和31年(1956年)9月に建立されと記されている。</ref> <ref name="B195402c8142" />。その2年ほど前に機関誌上で、穴太の[[瑞泉苑]]に石の宮([[神聖神社]])を再建すると発表されたが、それが何らかの理由で皆神山に建てられたのだという。理由は不明。
 
『[[愛善苑 (機関誌)|愛善苑]]』昭和48年(1973年)1月号13頁の記事「皆神山に石の宮竣成」によると、石の宮は前年(昭和47年)12月3日に遷座祭が執行された。次のように説明されているが、なぜ穴太ではなく皆神山に建てることになったのか、理由は記されていない。
 
{{inyou|
 完成した石の宮は、旧社殿跡二間四方に高さ三尺の石垣を積みあげ、その上に五尺四寸におよぶ総石造りのお宮があり玉垣がめぐらされている。使用された石材は国内三大産地の雄たる愛知県岡崎から二度も採掘厳選してきざまれただけに、山頂の神域にふさわしく、その麗姿はひときは四辺を圧して清く美しい。
 前夜、この清宮を祓い清めて地元の氏子総代や本部の木庭教学委員ら立合いのもとに、皆神山社家武藤神官ならびに工藤大本長野分苑長と小山四郎氏が奉仕して、大本皇大御神のご神体と木花咲耶姫命のご神像(高さ38センチ・巾20センチ・厚さ10センチ)を新宮に鎮祭した。
 
(略)武藤皆神山神官は、出口聖地以来の大本との由縁を語り「この皆神山奥社は大本さんによって三度も再建していただいたわけだが、この度は、三度目の正直といおうか、石造りの末代のお宮を完成していただき心から感謝する」と挨拶。(略)
 
 皆神山は地教山の雛型として大本神業上有名だが、全国唯一の教主さまの歌碑もここにある。この度再建された石宮は、かつて穴太瑞泉苑の神域に建てられていた〝神聖神社〟のうつしであり、昭和三十一年の神殿再建時に教主さまが確められた木花咲耶姫命の神像(奥社伝来の木像)を祀る宮士浅間神社である。| }}


== ギャラリー ==
== ギャラリー ==
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* [[ヒマラヤ山]]
* [[ヒマラヤ山]]
* [[水上山]] …紫微天界にある山
* [[水上山]] …紫微天界にある山
* 皆神神社 → 本項に転送
* [[出口王仁三郎の歌碑]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* <wp>皆神山</wp>
* {{wp|皆神山}}
* [http://www.minakami-jinja.jp/ 皆神神社(公式サイト)]
* [http://www.minakami-jinja.jp/ 皆神神社(公式サイト)]


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{{デフォルトソート:みなかみやま}}
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[[Category:山]]
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[[Category:皆神山|*]]
[[Category:秀逸な記事]]
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