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[[ファイル:教学碑2008.jpg|thumb|教学碑。2008年9月撮影。]] | [[ファイル:教学碑2008.jpg|thumb|教学碑。2008年9月撮影。]] | ||
[[ファイル:教学碑2014.jpg|thumb|教学碑。2014年3月撮影。]] | [[ファイル:教学碑2014.jpg|thumb|教学碑。2014年3月撮影。]] | ||
[[ファイル:教学碑の碑面.jpg|thumb|教学碑の碑面。]] | |||
'''教学碑'''(きょうがくひ)は、[[天恩郷]]内にある石碑の一つ。[[出口王仁三郎]]の筆になる[[教旨]]と[[三大学則]] | '''教学碑'''(きょうがくひ)は、[[天恩郷]]内にある石碑の一つ。[[出口王仁三郎]]の筆になる[[教旨]]と[[三大学則]]が刻まれている。「'''教旨・学則碑'''」とも呼ばれる。昭和28年(1953年)4月18日建立。 | ||
文面は以下の通り<ref>石碑にはフリガナは付いていないが仮にフリガナを付けるとこうなる→「{{obc|Z9022|大本三大学則}}」(霊界物語ネット)</ref>。 | |||
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この文字は昭和10年(1935年)9月8日に王仁三郎が書いたものである。石碑が彫り上がり建碑の準備が進められていたが、[[第二次大本事件]] | この文字は昭和10年(1935年)9月8日に王仁三郎が書いたものである。石碑が彫り上がり建碑の準備が進められていたが、[[第二次大本事件]]によって破壊されてしまった。 | ||
建立予定の碑石は巨大なものだった。縦6.7m、横2.5m、厚さ50cm、重量30トン(8千貫)もある仙台石で<ref>王仁三郎が全国に建立した歌碑等の石碑の中で最大級である。</ref>、昭和8年(1933年)11月26日に亀岡駅に到着し、500人の奉仕者によって天恩郷に運ばれた。 | |||
この石には表に[[大本教旨]]・[[三大学則]]・[[四大綱領]]・[[四大主義]]の4つが、裏には王仁三郎の歌が刻まれていた。石は破壊されてしまったが、石摺が京都市内の石屋・吉村茂右衛門の蔵に隠されており、戦後大本本部に返納された。その石摺によって昭和28年(1953年)4月18日に教学碑が建立された。また、[[四大主義碑]]が昭和46年(1971年)8月6日に建立された。 | |||
なお、[[教旨]]の文言にはいくつかの種類がある。昭和10年4月8日、王仁三郎は教旨の一部を改め、従来は「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の'''司宰者'''なり '''神人'''合一して茲に無限の'''権力'''を発揮す」だったが、「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の'''主体'''なり、'''霊体'''合一して茲に無限の'''神力'''を発揮す」に変えた。本宮山の[[教碑]]では「大司宰」になっている。教学碑では「主体」「霊体」「神徳」になっている。現在の大本教団では「主体」「神人」「権力」にしている<ref>大本本部公式サイト内「[https://oomoto.or.jp/wp/oomotokyoushi/ 大本教旨・三大学則]」</ref>。→詳細は「[[大本教旨]]」 | |||
〔参考文献:『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5421|本部での動き}}」、「{{obc|B195402c8241|造営}}」〕 | |||
== 関連項目 == | |||
* 天恩郷の「教碑」:名前は教学碑と似ているが全く別。三基並んでいる石碑の真ん中の石碑。 →「[[天恩郷の三基の歌碑]]」 | |||
* 本宮山の「教碑」:本宮山にも「教碑」という石碑がある。 →「[[本宮山の三基の石碑]]」 | |||
* [[四大主義碑]]:教学碑のすぐ近くにある。 | |||
* [[大本教旨]] | |||
* [[三大学則]] | |||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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[[Category:石碑]] | [[Category:石碑]] | ||
[[Category: | [[Category:天恩郷]] |