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2024年11月29日 (金) 17:42時点における最新版
7月12日は、出口王仁三郎の誕生日。明治4年(1871年)7月12日に生誕した。
日本は明治5年(1872年)にグレゴリオ暦(いわゆる新暦)を採用したため、明治4年7月12日はいわゆる旧暦である。新暦だと8月27日(日曜日)に当たる。
瑞生大祭
王仁三郎の誕生を記念する祭典は「誕生祭」や「生誕祭」等と呼ばれ旧7月12日に開かれていた。
昭和6年(1931年)8月25日(旧7月12日)は数え年61歳(満60歳)つまり還暦を迎えた年であったが、王仁三郎は還暦という言葉を嫌い「更生(こうせい)」[1]と呼んだため[2]「更生祭」と称して祭典が盛大に開かれた。 [3] [4]
昭和22年(1947年)8月27日(旧7月12日)は数え年77歳(満76歳)[5]で喜寿であり、当初は「喜寿慶祝祭」として行う予定であったが、王仁三郎が「喜寿」という言葉を嫌ったため「瑞生祭」という名称で祭典が開かれた。この時から王仁三郎の誕生祭は「瑞生祭」(後に「瑞生大祭」)と称することになった。 [6] [7] [8]
その後も瑞生大祭は旧7月12日に執行されていたが、日はたびたび変更になっている。
昭和30年(1955年)からは王仁三郎が昭和17年8月7日に出獄したことを記念して新暦8月7日に変更された。しかし昭和52年(1977年)から再び旧7月12日に変更された。[9]
平成15年(2003年)から再度8月7日に変更になった。[10]
大本信徒連合会では旧暦7月12日に「瑞生大祭」を、愛善苑では8月7日に「瑞霊降誕祭」を執行している。(いずれも令和4年(2022年)現在)
神集祭
神集祭は旧7月6日から旧7月12日まで一週間行われる。
大本神諭
大正十年立替説で重視された大本神諭の一節「明治五十年を真中として、前後十年の間が世の立替の正念場であるぞよ」「明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ」は、明治37年(1904年)旧7月12日に降りた大本神諭に記されている。〔大本神諭大本神諭 明治37年旧7月12日#〕
関連項目
外部リンク
脚注
- ↑ 更生という文字を合すると「甦(よみがえる)」になる。
- ↑ 『出口王仁三郎著作集 第五巻』「更生の年をむかえて#」:「世の中の多くの人は六十一歳の還暦を迎えると、自分でも老人の如うな感じがすると同時に、他人からも老人扱いされるものであって(略)それで私は六十一歳の還暦を「更生」と称えて、いよいよこれから世界の為に緊褌一番せにゃならぬからとて」(初出は『神の国』昭和10年11月号「大鏡 六十歳以上の人の為に#」)
- ↑ 『大本史料集成 Ⅱ』「聖師更生祭 歓呼祝呼に充たされた四日間#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「梅花運動#」
- ↑ 昇天の約5ヶ月前。
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「本部と地方のうごき#」:「当初本部からは「喜寿慶祝祭」として発表されたが、聖師の言葉にもとづき急拠変更して、このときから聖師の生誕祭を「瑞生祭」と称することになったのである」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「昇天#」:「一九四七(昭和二二)年八月二七日(旧七月一二日)は、聖師のかぞえ年七七才(満七六)、喜寿の誕生日である。ところがさきにもふれたように、聖師は「七十七」とか喜寿という言葉をきらい、「わしは三十三じゃ」といいはって喜寿としての慶祝はゆるされなかった。そこで「瑞生祭」とよぶことにし、盛大に瑞生祭が月の輪台でおこなわれた」
- ↑ 『新月の光』1276「瑞生祭のはじまり」:「聖師七十七歳の誕生日のお祭りを、喜寿祝として頂くこととなったら「王仁は三十二である。喜寿祝はいかぬ」とのお言葉があったので、出口宇知麿氏から「瑞生祭では如何ですか」とお伺いされたら「それでよい」との事にて、昭和二十二年の誕生日より瑞生祭と称えることとなった」…王仁三郎の発言中の年齢が『大本七十年史』では「三十三」だが『新月の光』では「三十二」になっている(タニハ版p576、昭和30年版p189、八幡版下巻p418)。ニュアンス的に瑞の御魂に因む「三十三」が妥当か?
- ↑ 『第三次大本事件の真相』「第三次大本事件勃発」p212
- ↑ 「大本のまつり」(宗教法人大本の公式サイト)令和4年(2022年)5月12日閲覧