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* 明治22年(1889年)12月20日生まれ<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223</ref>。 | * 明治22年(1889年)12月20日生まれ<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p223</ref>。 | ||
* 大阪の梅花女学校(キリスト教系の学校。現・梅花学園)を出る<ref name="sensyuu_4_p225">『[[出口栄二選集]] 第四巻』p225</ref>。 | * 大阪の梅花女学校(キリスト教系の学校。現・梅花学園)を出る<ref name="sensyuu_4_p225">『[[出口栄二選集]] 第四巻』p225</ref>。 | ||
− | * 明治39年(1906年)2月11日、名古屋で[[家口顕]]と結婚する<ref name="sensyuu_4_p225" /> | + | * 明治39年(1906年)2月11日、名古屋で[[家口顕]]と結婚する<ref name="sensyuu_4_p225" />。子供は8人産んだ→「[[出口栄二#家族]]」を見よ |
− | * | + | * 大正6年(1917年)夫の仕事に都合で佐賀に転居。 |
+ | * 昭和2年(1927年)夫が帰幽。 | ||
+ | * 栄二が小学4年生の時、姉の愛子(よしこ)が喘息で困っていることを作文に書いた。父兄参観で来ていた同級生の母親(戸田ハル)がそれを知り、家に来て大本の話をした。それをきっかけに昭和4年(1929年)10月、いくは大本に入信した。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p241~242</ref> <ref>『天皇の伝説』収録「出口王仁三郎御落胤伝説」([[出口和明]]インタビュー)p93</ref> | ||
+ | * 昭和5年(1930年)5月15日、[[王仁三郎]]は佐賀の家口家を訪れた(歌日記にもある)。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p242</ref> | ||
+ | * 昭和44年(1969年)3月1日、帰幽。79歳。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p479</ref> | ||
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+ | == 王仁三郎と初対面 == | ||
+ | いくは初めて王仁三郎と面会した時のエピソードを次のように回顧している。<ref>『[[出口栄二選集]] 第四巻』p242~243の出口栄二と出口和明の対談の中。初出は『[[おほもと]]』昭和48年(1973年)10月号</ref> | ||
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+ | 『[[おほもと]]』昭和37年(1962年)4月号p48-51に家口郁子「おもかげ ─二代さまの思い出─」と題する随筆あり。 | ||
== 脚注 == | == 脚注 == |
2020年2月12日 (水) 01:53時点における最新版
略歴
- 明治22年(1889年)12月20日生まれ[1]。
- 大阪の梅花女学校(キリスト教系の学校。現・梅花学園)を出る[2]。
- 明治39年(1906年)2月11日、名古屋で家口顕と結婚する[2]。子供は8人産んだ→「出口栄二#家族」を見よ
- 大正6年(1917年)夫の仕事に都合で佐賀に転居。
- 昭和2年(1927年)夫が帰幽。
- 栄二が小学4年生の時、姉の愛子(よしこ)が喘息で困っていることを作文に書いた。父兄参観で来ていた同級生の母親(戸田ハル)がそれを知り、家に来て大本の話をした。それをきっかけに昭和4年(1929年)10月、いくは大本に入信した。[3] [4]
- 昭和5年(1930年)5月15日、王仁三郎は佐賀の家口家を訪れた(歌日記にもある)。[5]
- 昭和44年(1969年)3月1日、帰幽。79歳。[6]
王仁三郎と初対面
いくは初めて王仁三郎と面会した時のエピソードを次のように回顧している。[7]
昭和四年、九州から初修行に亀岡に来た時のことです。聖師さまは高天閣でした。昔は修行者は、高天閣で御面会でした。聖師さまはお机で、みんなぐるりと坐るでしょう。おじぎして、聖師さまが一人一人を御覧になって、またおじぎしてズーと行くでしょ。みんなが辞去して帰った後も、私はいつまでも立ち上がれないのです。あれは霊縛をかけられていたのでしょう。すると聖師さまが藪から棒に、
「タルヒトか、タケヒトか」
と聞かれたので、私はとっさに、
「熾仁……」
と答えました。
「よかった。タケヒトでなくって」
と聖師さまは言われました。あれはおそらく、禅問答のようなものでした。(和明註・いくの別の手記などからも察するに、いくは熾仁親王の異母弟の名が威仁(たけひと)親王であることを、知らなかったのではないか。だからタケヒトという言葉を、禅問答のように受け止めたのであろう)そうすると、聖師さまが私を抱きかかえて、
「苦労したやろうなあ。かわいそうに」
とおっしゃった。そのお言葉で、私は今までの悲しかったことがいっぺんに流されて、すがすがしゅうなりました。
「私とお前とは、十八も違うぞ」
著述
『おほもと』昭和37年(1962年)4月号p48-51に家口郁子「おもかげ ─二代さまの思い出─」と題する随筆あり。