「熊野館」の版間の差分
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2018年10月6日 (土) 18:57時点における版
熊野館(くまのやかた)は、亀岡の中矢田農園にあった王仁三郎の居宅のことで、王仁三郎が命名した。第二次大戦後、天恩郷が再建されるまでは、大本の活動の拠点になっていた。
第二次大本事件で投獄されていた王仁三郎は、昭和17年(1942年)8月7日、保釈され、6年8ヶ月ぶりで亀岡に帰った。
その頃、熊野館には出口直日一家が住んでおり、王仁三郎夫妻は北隣の有悲閣(後の出口光平宅)の二階に住んでいたが、昭和18年6月、直日一家が但馬の竹田町に移転した後、熊野館に王仁三郎夫妻が住むようになった。また三女の八重野・宇知麿一家も同居した。[1] [2]
王仁三郎の指示により熊野館の庭が拡張され、北側[3]には富士山をかたどった築山が造られた。また西北の隅には小池が掘られ鏡池[4]と命名された。この二つは富士と鳴戸になぞらえたもので、これを雛型として後に綾部に月山富士と金竜海が造られた。また築山には「みろく松」が植えられた。[1] [2]
昭和20年4月16日、出口直美(直日の長女)と家口栄二、出口操(梅野の長女)と角田光平の二組の合同結婚式が、熊野館の神前で行われた。[1] [5]
昭和21年(1946年)2月7日、大本は「愛善苑」として新発足したが、熊野館がその本部となった。[6]
昭和21年8月26日、王仁三郎は脳出血により病床に就き、半身不随となる。9月8日、天恩郷の瑞祥館が完成し、12月5日、幌付きの寝台で仰臥したまま、8人の奉仕者によって台を支えられ、熊野館から瑞祥館に移動した。[7]
その後、大本の拠点は天恩郷に移り、熊野館は出口伊佐男(宇知麿)・八重野一家の住居となる。また、その長男の出口和明一家の住居となる。
平成22年(2010年)8月14日午後7時半頃、漏電と思われる出火により熊野館の母屋が焼失した。王仁三郎が寝起きしていた「みろく亭」と「お蔵」は焼け残った。