「月の輪台」の版間の差分

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[[ファイル:大祥殿・みろく塔・月の輪台.jpg||thumb|right|戦前の月の輪台。右奥の建物は[[大祥殿]]、左奥は[[みろく塔]]、手前が月の輪台(大正15年2月撮影)]]
'''月の輪台'''(つきのわだい)は、[[亀岡]]の[[天恩郷]]にある聖壇。大正時代に造られ、[[第二次大本事件]]で破壊されたが、戦後再建された。
'''月の輪台'''(つきのわだい)は、[[亀岡]]の[[天恩郷]]にある聖壇。大正時代に造られ、[[第二次大本事件]]で破壊されたが、戦後再建された。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[ファイル:月の輪台新旧対応地図.png||thumb|right|月の輪台及びその周辺の建造物の、戦前と戦後との比較地図。(『[[大本七十年史]] 下』収録の地図を使用)]]


大正時代に[[天恩郷]]の整備を始めた際に、[[王仁三郎]]は一番最初に月の輪台を築造した。これは[[霊国]]における[[月照山]]に相応するもので、同年4月25日にはそこに月照山の御神体として「[[みろく塔]]」が建設された。13階層の石塔で高さ6.66m(約2丈2尺)。塔の台石には四天使の像が彫られていた。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4444|国内宣教と造営}}」</ref>
大正時代に[[天恩郷]]の整備を始めた際に、[[王仁三郎]]は一番最初に月の輪台を築造した。これは[[霊国]]における[[月照山]]に相応するもので、同年4月25日にはそこに月照山の御神体として「[[みろく塔]]」が建設された。13階層の石塔で高さ6.66m(約2丈2尺)。塔の台石には四天使の像が彫られていた。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4444|国内宣教と造営}}」</ref>
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大正14年(1925年)3月22日に完成する。<ref name="oomoto_nanpyo">「大本年表」</ref>
大正14年(1925年)3月22日に完成する。<ref name="oomoto_nanpyo">「大本年表」</ref>


[[第二次大本事件]]で破壊されたが、戦後再び築造された。昭和21年(1946年)8月25日に月の輪台の石垣積みが完了。翌26日に完成するが、しかしその日の朝、王仁三郎は発作を起こし(脳出血)絶対安静となった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c731|1 昇天}}」</ref> 「大本年表」では8月26日に「月の輪台'''築造始める'''」とあり、<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7132|両聖地の整備}}」では8月26日に「月の輪台が'''築造された'''」とある。</ref>
[[第二次大本事件]]で破壊されたが、戦後再び築造された。昭和21年(1946年)8月25日に月の輪台の石垣積みが完了。翌26日に完成するが、しかしその日の朝、王仁三郎は発作を起こし(脳出血)絶対安静となった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c731|1 昇天}}」</ref> <ref>「大本年表」では8月26日に「月の輪台'''築造始める'''」とあり、『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7132|両聖地の整備}}」では8月26日に「月の輪台が'''築造された'''」とある。</ref>


昭和28年(1953年)6月18日、第二次大本事件で行方不明だった天降鉄を月の輪台に鎮祭した。<ref name="oomoto_nanpyo" />
昭和28年(1953年)6月18日、第二次大本事件で行方不明だった天降鉄を月の輪台に鎮祭した。<ref name="oomoto_nanpyo" />
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[[Category:大本の施設]]
[[Category:月の輪台|*]]
[[Category:天恩郷]]