「八雲山」の版間の差分

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[[ファイル:八雲山歌碑.jpg|thumb|八雲山歌碑(戦前)]]
[[ファイル:八雲山歌碑2.jpg|thumb|八雲山歌碑と出口王仁三郎。]]
[[ファイル:八雲山歌碑.jpg|thumb|八雲山歌碑]]


'''八雲山'''(やくもやま)は、島根県にあり、記紀神話で[[素盞嗚尊]]が「[[須賀の宮]]」を築いた山。山頂に[[出口王仁三郎]]の歌碑がある。
'''八雲山'''(やくもやま)は、島根県にあり、記紀神話で[[素盞嗚尊]]が「[[須賀の宮]]」を築いた山。山頂に[[出口王仁三郎]]の歌碑がある。
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== 出口王仁三郎との関わり ==
== 出口王仁三郎との関わり ==
[[ファイル:八雲山登山口の看板.jpg|thumb|八雲山登山口にある看板。(2012年撮影)]]
[[ファイル:八雲山歌碑(2012年).jpg|thumb|八雲山山頂にある、現在の歌碑。(2012年撮影)]]
[[ファイル:八雲山歌碑と聖師御手植之松(2012年).jpg|thumb|歌碑と聖師御手植の松。(2012年撮影)]]
昭和7年(1932年)10月18日から29日まで、[[出口王仁三郎]]は[[澄子]]と共に竹田町愛善郷や山陰地方を巡教した。10月24日(旧9月25日)には八雲山に登り、頂上を神跡として整備するよう命じた。
昭和7年(1932年)10月18日から29日まで、[[出口王仁三郎]]は[[澄子]]と共に竹田町愛善郷や山陰地方を巡教した。10月24日(旧9月25日)には八雲山に登り、頂上を神跡として整備するよう命じた。


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同年11月22日(旧10月25日)、[[大本八雲神社]]の鎮座祭が行われた。
同年11月22日(旧10月25日)、[[大本八雲神社]]の鎮座祭が行われた。


昭和8年(1933年)11月10日(旧9月23日)<ref name="s81110">八雲山歌碑の除幕式は昭和8年11月10日である(大本年表、大本七十年史)。だが『出口王仁三郎全集 第七巻』15頁で八雲山歌碑を「建設」した日が「十月十日」になっているためか、後世の資料で10月10日と記しているものがいくつかある。八雲山登山口にある看板、『[[大本教学]] 第七号』「出口王仁三郎聖師歌碑集録」94頁。</ref>王仁三郎臨席で八雲神社の秋季大祭が行われ、その後、歌碑の除幕式が行われた。歌碑は「[[八雲山歌碑]]」と呼び、「八雲たつ出雲の歌の生《うま》れたる須賀の皇居《みやゐ》の八重垣の跡」という歌が刻まれた。歌碑の傍らに記念として小松が植えられた。歌碑の側面と裏が広かったため王仁三郎はそこにも歌を刻めと命じ次の二首を与えた。「大山《だいせん》は御空に霞み海は光《て》る出雲の国は錦の秋《あき》なり」「千早ふる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾《わが》来つるかも」。
昭和8年(1933年)11月10日(旧9月23日)<ref name="s81110">八雲山歌碑の除幕式は昭和8年11月10日である(大本年表、大本七十年史)。だが『出口王仁三郎全集 第七巻』15頁で八雲山歌碑を「建設」した日が「十月十日」になっているためか、後世の資料で10月10日と記しているものがいくつかある。八雲山登山口にある看板、『[[大本教学]] 第七号』「出口王仁三郎聖師歌碑集録」94頁。(『神の国』昭和9年(1934年)1月号123頁「聖都消息」の記事で、八雲山歌碑建立は11月であることを確認した)</ref>王仁三郎臨席で八雲神社の秋季大祭が行われ、その後、歌碑の除幕式が行われた。歌碑は「[[八雲山歌碑]]」と呼び、「八雲たつ出雲の歌の生《うま》れたる須賀の皇居《みやゐ》の八重垣の跡」という歌が刻まれた。歌碑の傍らに記念として小松が植えられた。歌碑の側面と裏が広かったため王仁三郎はそこにも歌を刻めと命じ次の二首を与えた。「大山《だいせん》は御空に霞み海は光《て》る出雲の国は錦の秋《あき》なり」「千早ふる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾《わが》来つるかも」。


[[第二次大本事件]]で八雲山山頂の八雲神社や歌碑も破却された。
[[第二次大本事件]]で八雲山山頂の八雲神社や歌碑も破却された。
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昭和44年(1969年)10月24日、歌碑が再建された。
昭和44年(1969年)10月24日、歌碑が再建された。
八雲山登山口に昭和40年(1965年)10月に建てられた案内看板には次のように記されている。
{{inyou|和歌発祥地「八雲山」について
 出雲国八雲山は、素盞嗚尊によって<br>
   八雲立つ出雲八重垣妻籠みに<br>
      八重垣つくるその八重垣を<br>
の短詩が詠われ三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風《くにぶり》となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。<br>
 伝承神話によれば、素盞嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥《たらい》に結び梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して〝八雲立つ〟の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し我が国絃楽の濫觴《はじめ》として古式〝歌祭り〟に伝わった。<br>
 八雲山の伝承を世に顕彰したのは大本の出口王仁三郎聖師で、昭和八年(十月十日)次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤まれる官憲の弾圧を受け破壊されている。)<br>
  千早ぶる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾が来つるかも<br>
  八雲立つ出雲の歌の生れたる須賀の皇居《みやい》の八重垣のあと<br>
  大山はみ空に霞み海は光る出雲の国は錦の秋なり<br>
 悠久の太古最初の和歌を生んだ八雲山上の風光は今に明媚なること天下第一で、発祥の和歌に秘められた、平和のこころを伝えている。<br>
  昭和四十年十月<br>
    八雲山顕彰保存会| }}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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* [[八雲川]]:霊界物語[[第26巻]]に登場する。
* [[八雲川]]:霊界物語[[第26巻]]に登場する。
* [[スガの宮]]:霊界物語[[第72巻]]に登場する。
* [[スガの宮]]:霊界物語[[第72巻]]に登場する。
* [[出口王仁三郎の歌碑]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [https://suga-jinja.or.jp/ 須我神社](公式サイト)
* [https://suga-jinja.or.jp/ 須我神社](公式サイト)
* <wp>須我神社</wp>
* {{wp|須我神社}}
* [http://www.kumanotaisha.or.jp/ 熊野大社](公式サイト)
* [http://www.kumanotaisha.or.jp/ 熊野大社](公式サイト)
* <wp>熊野大社</wp>
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{デフォルトソート:やくもやま}}
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[[Category:山]]
[[Category:山]]
[[Category:八雲山|*]]