「昭和の女天一坊事件」の版間の差分
ページの作成:「'''昭和の女天一坊事件'''(しょうわのおんなてんいちぼうじけん)とは、「智江」という名の女が閑院宮載仁(かんいんのみ…」 |
細 文字列「<wp>」を「{{wp|」に置換 |
||
| (同じ利用者による、間の4版が非表示) | |||
| 1行目: | 1行目: | ||
'''昭和の女天一坊事件'''(しょうわのおんなてんいちぼうじけん)とは、「智江」という名の女が閑院宮載仁(かんいんのみや | '''昭和の女天一坊事件'''(しょうわのおんなてんいちぼうじけん)とは、「智江」という名の女が閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王の落胤だと偽り、昭和17年(1942年)に[[亀岡]]で詐欺を働いた事件。 | ||
== 概要 == | == 概要 == | ||
この事件は[[出口王仁三郎]]の歌集『[[月照山 (歌集)|月照山]] | この事件は[[出口王仁三郎]]の歌集『[[月照山 (歌集)|月照山]]』の最後に収録されている「怪奇録」と「山嵐」に記されている。それだけでは分かりづらいので、[[出口和明]]による解説<ref>出口和明「明らかになった『たまほこのひ可里』の編纂」、『[[神の国]]』平成10年(1998年)9月号、23~36頁</ref>を参考にすると、事件のあらましは次のようになる。 | ||
* 智江(読み方不明。ともえ?ちえ?)は「山さん」という海軍中尉の妻で、「千枝」とか「清子」という変名を使っていた。 | * 智江(読み方不明。ともえ?ちえ?)は「山さん」という海軍中尉の妻で、「千枝」とか「清子」という変名を使っていた。 | ||
| 18行目: | 18行目: | ||
王仁三郎はそれに由来して、智江を「昭和の女天一坊」とか、略して「女天一」「女天」などと呼んでいる。 | 王仁三郎はそれに由来して、智江を「昭和の女天一坊」とか、略して「女天一」「女天」などと呼んでいる。 | ||
== 関連項目 == | |||
* [[たまほこのひ可里]]:女天一坊事件が進行している最中の昭和17年9月7日に、[[佐藤紋次郎]]は出口王仁三郎に面会し、孝明天皇の遺勅について話した。佐藤のことは、女天一坊事件が記された「怪奇録」の前半に歌われており、王仁三郎は佐藤を狂人扱いして追い返している。翌年、佐藤が孝明天皇の遺勅について口述したものが本書『たまほこのひ可里』である。 | |||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
* | * {{wp|天一坊事件}} | ||
* | * {{wp|天一坊改行}} | ||
* | * {{wp|閑院宮載仁親王}} | ||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||