昭和の女天一坊事件
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昭和の女天一坊事件(しょうわのおんなてんいちぼうじけん)とは、「智江」という名の女が閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王の落胤だと偽り、昭和17年(1942年)に亀岡で詐欺を働いた事件。
概要
この事件は出口王仁三郎の歌集『月照山』の最後に収録されている「怪奇録」と「山嵐」に記されている。それだけでは分かりづらいので、出口和明による解説[1]を参考にすると、事件のあらましは次のようになる。
- 智江(読み方不明。ともえ?ちえ?)は「山さん」という海軍中尉の妻で、「千枝」とか「清子」という変名を使っていた。
- 昭和17年(1942年)8月7日、王仁三郎は保釈され亀岡に帰宅した。その後、智江は夫婦で亀岡に来て、矢田神社(鍬山神社)の社務所に住みついた。閑院宮の落胤だと偽り、大本信者や、亀岡町役場、警察までも騙した。
- 同年9月頃[2]、王仁三郎は三千麿を東京に派遣して智江の正体を調べさせた。三千麿は「谷口」(素性は不明)と会い、智江についての話を聞いた。それによると、智江は昭和14年(1939年)谷口邸に突然、献上品を持って現れた。智江は「鶴殿親子代理」と書いた名刺を出して谷口の信用を得た。谷口はその献上品を閑院宮に取り次ぎ、智江はその礼状を悪用し、詐欺に使った。
- 亀岡で智江は王仁三郎の名を出して大本信者を騙し、財産を巻き上げた。そして色仕掛けで王仁三郎に秋波を送り出した。目的は、妻の澄子(二代教主)と長女の直日(三代教主)を追い出して、後釜に入ろうとしたのである。
- 王仁三郎は智江を虚栄心が強い「パラノイヤ」(パラノイア。偏執病。妄想症)だとし、「月」(王仁三郎)を取り込んで天下を撹乱する計画だと、歌の中で非難している。
- 王仁三郎は信者の被害を防ぐために警察に出頭し、智江を特高に訴えた。しかし町役場も警察も智江に騙されていたため、自分たちの失態が明らかにならないよう、一時はこの事件を揉み消そうとした。
- 智江は詐欺が発覚したと知ると、夫婦で何度も京都の警察本部に出頭し、逆に大本と王仁三郎を訴えた。
- 10月12日、三千麿は真相を探るために警察本部に出頭した。
- 10月20日、警察は智江夫婦を検挙して、事件は落着した。
名の由来
「天一坊事件」とは、江戸時代に山伏の天一坊改行が、徳川吉宗(第8代将軍)の落胤だと偽ったのが発覚して、町奉行によって死罪に処せられた事件。大岡政談の講談に取り入れられ、後には歌舞伎や小説、映画などの題材となった。
王仁三郎はそれに由来して、智江を「昭和の女天一坊」とか、略して「女天一」「女天」などと呼んでいる。
関連項目
- たまほこのひ可里:女天一坊事件が進行している最中の昭和17年9月7日に、佐藤紋次郎は出口王仁三郎に面会し、孝明天皇の遺勅について話した。佐藤のことは、女天一坊事件が記された「怪奇録」の前半に歌われており、王仁三郎は佐藤を狂人扱いして追い返している。翌年、佐藤が孝明天皇の遺勅について口述したものが本書『たまほこのひ可里』である。