「天の御三体の大神」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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(ページの作成:「'''天の御三体の大神'''(てんのごさんたいのおおかみ)とは、天照大御神広目大神)、伊邪那岐大神日の大神…」)
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2024年5月23日 (木) 18:08時点における版

天の御三体の大神(てんのごさんたいのおおかみ)とは、天照大御神広目大神)、伊邪那岐大神日の大神)、伊邪那美大神月の大神)の三神の総称である[1]。大本神諭及び霊界物語に登場する。

(神名が長いので、本項では以下、別名の「天の大神」と記すことにする)

概略

  • 表記ゆれ:御三体の大神、三体の大神、天の三柱の大神、三柱の大神
  • 別名:天の大神、天上の大神、ミロクの大神、ツキの大神(撞の大神)、天の御先祖様、など。[2]
  • 初出:第1巻第18章霊界の情勢#(御三体の大神)、第3巻第41章二神の帰城#(天の三柱の大神)、第1巻発端#(天の大神)
  • 天の大神は君系であり、国祖国常立尊地の大神)は臣系であって、組織上は天の大神が国常立尊より上位にある。しかし元来は国常立尊が祖神であり、天の大神は国常立尊の子孫である。[3]
  • 本宮山の山頂に建設された本宮山神殿[4]長生殿[5]は、天の大神を祭るための神殿である。[6] [7]

主なエピソード

第4巻

八王大神常世彦二世)は諸神人と図り、天の大神に、国祖の隠退を希望すると奏上した。天の大神は国祖に、緩和的神政を行うよう説得した。さらに国祖の妻神(豊国姫命)から国祖に諫言してもらったが、国祖は和光同塵的神政を行うことを断固拒否した。その決心は強く、動かなかった。八王大神は奏問状を天の大神に捧呈し「国祖は律法を厳守するどころか正反対の行動が多く、地上の神人で国祖を信頼する者は一柱もない。国祖を隠退させ、代わりに盤古大神塩長彦に、国祖の神権を与えるよう」訴えた。

天の大神は国祖に、聖地エルサレムを去り、根の国に降るよう、涙を呑んで告げた。国祖は天の大神の心情を察知し、自発的に隠退を表明した。

天の大神は、一陽来復の時が来て貴神が復権する時には、自分も天上から地上に降り、貴神の神業を輔佐する、と宣示した。〔以上、第4巻第45章あゝ大変#

第6巻

大洪水の後、天の御柱の神国の御柱の神撞の御柱の神(それぞれ伊弉諾大神・伊弉册大神・天照大神の別名。つまり天の御三体の大神)の三柱の神は、泥海と化した地上を再生し、国生み・神生みの神業を行った。〔第6巻第18章天の瓊矛#第29章泣沢女#

関連項目

脚注

  1. 第1巻第22章国祖御隠退の御因縁#:「天では天照大御神、日の大神(伊邪那岐尊)、月の大神(伊邪那美尊)、この三体の大神が、地の高天原に御降臨あそばし給ひ、国常立尊の神政および幽政のお手伝ひを遊ばされることになつた」
  2. 出口王仁三郎全集 第1巻』「太古の神の因縁#」:「開祖の神諭には天の御三体の大神と称えあり、又ミロクの大神、ツキの大神とも称え奉り、又天の御先祖様と称え奉りあり」
  3. 第1巻第22章国祖御隠退の御因縁#:「さて天の御三体の大神様は、国常立尊は臣系となつてゐらるるが、元来は大国常立尊は元の祖神であらせたまひ、御三体の大神様といへども、元来は国常立尊の生みたまうた御関係が坐します故」
  4. 第一次大本事件直後に破却された。
  5. 基礎工事だけで完成せずに第二次大本事件によって破却された。
  6. 『[[神の国 (1921)|]]』大正10年(1921年)9月号、51頁、「七夕祭に際して」(8月10日の五六七殿における出口王仁三郎の講演筆録):此度、本宮山に御神殿が出来上つたのも、神界の高天原に国常立命様が御三体の大神様の御神殿を御建築になり、先づ神様から敬神の手本を我々にお示しになつたのであります。それで本宮山の御神殿は、国常立尊様のお建てになつたもので、決して我々人間の建てる可きものではないのでありまして、我々人間として国常立尊様の御手伝をさせて戴いたので或る時期が来ましたら吾々信者は神様に習つて国常立尊様のお宮を建立さして戴くのが順序であります。
  7. 真如の光』昭和10年(1935年)8月17日・25日合併号、12頁、8月10日のみろく殿における昭和青年会・昭和坤生会総会における総裁(出口王仁三郎)訓示:(略)この皇道大本に肝心のもう一つ遅れて居る事があるのであります。これは何かと云へば祭政一致である、皇道を天下に宣布発揚せんとせば、どうしても大神様の神霊の奉安所を建てて、神様に奉る必要が迫つて居るのであります。この祭政一致の精神によつて、大正九年から十年にかけて、鶴山山上に荘厳なる神殿を拵へましたが御存じの様な次第で、あれは壊されて了つたのであります。けれどもその後信徒諸氏の信仰心は益々強烈になつて来たのであります。さうしてどうしても壊されたる宮の跡に於いて慨《なげ》く事を止めて、再び再建する曙光に向つたのであります。故に本年の十月廿七日の記念日(注・大正10年10月27日の本宮山神殿取毀完了)に斧始式を執行したいと思ひます。そして先づ天地の大神様を奉斎し、それからこの皇道を中外に向つて宣揚したいと思ひます。