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出口王仁三郎

715 バイト追加, 2023年11月3日 (金) 18:15
「王仁三郎」の名の由来
明治36年(1903年)旧4月27日(新5月23日)の筆先で「会長(喜三郎のこと)は神界では出口おに三郎と名を致すから」云々と出た(筆先なので本来は全文平仮名)。喜三郎は「おに」に「王仁」の文字を宛て、以後「王仁三郎」と名乗るようになった。<ref>出口和明『[[大地の母]] 第8巻』「岩戸開き」</ref> <ref>この筆先は大本神諭にはなっていない。『[[大本史料集成]]Ⅰ』p211(5月23日の筆先)、『大本神諭([[五巻本]])第三集』p76(旧4月27日の筆先)に掲載されている。両者の文面が多少異なるが、史料集成のものが原文に近いと思われる。大地の母(第8巻「岩戸開き」)に引用されているものは五巻本のもの。</ref>
明治37年(1904年)9月20日、町役場に改名届を出し、戸籍上「上田王仁三郎」になる。(王仁三郎は上田家の戸主なので改姓は出来なかった。弟の[[上田幸吉|幸吉]]が明治43年11月1日に上田家の戸主になったので、その後「出口」に改姓した)が明治43年11月1日に上田家の戸主になったので、その後「出口」に改姓した)(この当時でも改名は余程の理由がなければ出来なかった。王仁三郎は理由として──当時穴太の上田嘉市の息子が喜三郎という名前で、狭い穴太に上田喜三郎が二人いると郵便の誤配など混乱が生じる──ということを改名理由にした。王仁三郎は[[中村竹吉]]と[[四方平蔵]]に命じて役場に改名届を出させたが、この時二人は悪意から「王仁三郎」ではなく「鬼三郎」と届を出した。そのため短い期間だが、法的に「上田鬼三郎」だった時期がある。<ref>みいづ舎版『大地の母 第八巻』「{{obc|B138908c10|北桑田宣教}}」p250-251</ref>)
明治43年(1910年)12月29日、出口家への養子の手続きが終わり、戸籍上「出口王仁三郎」になる。

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