「台湾」の版間の差分
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'''台湾'''(たいわん)は、島または国。明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)まで50年間、日本領であった。現在政治上は日本とは別の国(中華民国)であるが、雛型論で言うと台湾は日本(日本列島)の一部であり、南米大陸(霊界物語では[[高砂島]])の胞衣(雛型)である。 | '''台湾'''(たいわん)は、島または国。明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)まで50年間、日本領であった。現在政治上は日本とは別の国(中華民国)であるが、雛型論で言うと台湾は日本(日本列島)の一部であり、南米大陸(霊界物語では[[高砂島]])の胞衣(雛型)である。 |
2022年4月13日 (水) 23:15時点における版
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この項目では、現代の台湾について説明しています。霊界物語に登場する太古の台湾については「台湾島」をご覧ください。
台湾(たいわん)は、島または国。明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)まで50年間、日本領であった。現在政治上は日本とは別の国(中華民国)であるが、雛型論で言うと台湾は日本(日本列島)の一部であり、南米大陸(霊界物語では高砂島)の胞衣(雛型)である。
目次
巡教概要
- 大正12年(1923年)出口澄子は台湾へ巡教。11月20日出発し、12月10日に帰綾する。
- 昭和2年(1927年)出口王仁三郎は台湾へ巡教。12月9日に出発。12月31日に那覇へ。奄美を回り、3年1月31日に帰亀。
- 昭和4年(1929年)出口日出麿は台湾へ巡教。2月10日に出発し、3月22日に帰綾。
- 昭和6年(1931年)王仁三郎と澄子は台湾へ巡教。5年12月29日出発。6年1月30日に帰亀。台湾滞在中、1月3日に台湾別院を設置。
- 昭和8年(1933年)王仁三郎は三度目の台湾巡教へ。8月9日出発。帰路、九州や四国を回り、9月15日に帰亀。台湾滞在中の8月12日、基隆分院を設置(9月24日に別院に昇格)。8月20日、台湾別院に憧憬歌碑を設置。8月24日、二水分院を設置。
- 昭和10年(1935年)王仁三郎は四度目の台湾巡教。3月6日出発。台湾各地の昭和神聖会本支部の発会式に臨席する。12日、台湾地方本部、台北。14日、台南。15日、高雄。17日、嘉義。19日、台中。20日、彰化。24日、花蓮港。26日、基隆の各支部。31日に帰亀。滞在中の3月21日に彰化分院を設置。
〔この項は特記ある場合を除き「大本年表」をもとに作成した〕
大正12年・出口澄子の巡教
昭和2年・王仁三郎の第1回巡教
昭和4年・出口日出麿の巡教
昭和6年・王仁三郎の第2回巡教
昭和8年・王仁三郎の第3回巡教
昭和10年・王仁三郎の第4回巡教
別院・歌碑
台湾には台北に「台湾別院」(昭和5年1月3日設置)が、基隆に「基隆別院」(昭和8年8月12日設置)があった。
台湾別院には「草山歌碑(憧憬歌碑)」(昭和8年8月8日建立)が、基隆別院には「基隆別院歌碑」(昭和8年9月20日建立)があった。
その他
- 出口直の二男・出口清吉(明治5年生まれ)は、徴兵により明治25年、東京の近衛師団に入隊する。明治28年、台湾が日本の植民地になると、近衛師団は台湾鎮定のため派兵され、清吉も出征するが、7月あるいは8月に台湾で戦死する[1]。しかし筆先には「清吉は死んでおらぬ」と出て、謎が残された。→「出口清吉」を見よ
- 台湾と琉球に関して、第51巻第16章「暗闘」#に(徳公のセリフ)「しまひには、只一つよりない大椀(台湾)まで逃出すかも知れぬぞ。何程琉球そに言うても、骨のない蒟蒻腰では駄目だ」ということが書いてある。
脚注
関連資料
- 『大本七十年史 上巻』「台湾の動き#」
- 『大本七十年史 下巻』「満州巡教と世界紅卍字会#」
- 『大本七十年史 下巻』「創立一周年#」
- 『大本七十年史 下巻』「聖師の巡教と歌碑#」
- 『大本七十年史 下巻』「海外へも波及#」
- 『大本七十年史 下巻』「海外派遣宣伝使の活動#」