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− | 『[[神霊界]]』大正8年(1919年)8月15日号掲載の「随筆」p14によると、'''4月15日'''に出発し、16日に長沢から鎮魂帰神の高等得業の証を受けた。{obc|B195502c110708|随筆『神霊界』大正8年8月15日号掲載}}:「同月十五日東上して、長沢氏に合ふたのである」「長沢氏より四月十六日、先生に逢つた翌日、直ぐに「鎮魂帰神の高等得業を証す」と云ふ辞令を頂いて」。 | + | (1) 霊界物語では穴太を出発したのは'''4月13日'''で、穴太に帰ったのは4月22日の夜である。{{rm|37|20|仁志東||a048}}:「三矢の案内で愈同月の十三日、穴太を立つて」「一週間許り世話になつて、二十二日の夜漸く穴太の自宅に帰る事を得た」。<br> |
− | 「[[本教創世記]]」では4月15日付で喜三郎は中監督に任ぜられ、'''4月28日'''に出発。3日間滞在したというので、5月1日に穴太に帰ったことになる。{{obc|B195301c16|第十章 幽斎修業}}:「四月の二十八日に三ツ屋の案内にて、始めて参閣する事となったのである」、{{obc|B195301c17|第十一章 出発}}:「しかしただの三日の逗留であったから」。 | + | (2) 『[[神霊界]]』大正8年(1919年)8月15日号掲載の「随筆」p14によると、'''4月15日'''に出発し、16日に長沢から鎮魂帰神の高等得業の証を受けた。{obc|B195502c110708|随筆『神霊界』大正8年8月15日号掲載}}:「同月十五日東上して、長沢氏に合ふたのである」「長沢氏より四月十六日、先生に逢つた翌日、直ぐに「鎮魂帰神の高等得業を証す」と云ふ辞令を頂いて」。<br> |
− | 「[[大本年表]] | + | (3) 「[[本教創世記]]」では4月15日付で喜三郎は中監督に任ぜられ、'''4月28日'''に出発。3日間滞在したというので、5月1日に穴太に帰ったことになる。{{obc|B195301c16|第十章 幽斎修業}}:「四月の二十八日に三ツ屋の案内にて、始めて参閣する事となったのである」、{{obc|B195301c17|第十一章 出発}}:「しかしただの三日の逗留であったから」。<br> |
− | + | (4) 「[[大本年表]]」は「本教創世記」と同じく、4月15日に中監督に任ぜられ、'''4月28日'''に出発。<br> | |
+ | (5) 『[[大本七十年史]]』では詳しい日付は書いていない。『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1434|稲荷講社と本田親徳}}」 | ||
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)、喜三郎は生まれて初めて汽車に乗り、三矢の案内で静岡の長沢の宅へ向かった。 | )、喜三郎は生まれて初めて汽車に乗り、三矢の案内で静岡の長沢の宅へ向かった。 |
2020年4月17日 (金) 02:47時点における版
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出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871~1948)は、世界改造業者。大本教祖、宗教家、霊能者、予言者としても知られている。幼名は上田喜三郎。
明治4年(1871年)7月12日生まれ。
昭和23年(1948年)1月19日(旧12月9日)昇天。
目次
出生
明治4年(1871年)7月12日(当時はまだ改暦前。新暦だと8月27日になる)上田家に生まれる。幼名・喜三郎(きさぶろう)。
8人兄弟の長男。他の弟妹は次の通り[1]。
- 長男 喜三郎
- 次男 由松(よしまつ)
- 三男 幸吉(こうきち)
- 四男 政一(まさいち)
- 五男 久太郎(きゅうたろう)…出生後数十日で帰幽。
- 長女 絹子(きぬこ)…4才で帰幽。
- 次女 雪子(ゆきこ)
- 三女 君子(きみこ)
少年青年時代
高熊山修業以降
長沢雄楯との出会い
明治31年(1898年)4月3日、稲荷講社総本部の配札係[2]・三矢喜右衛門が綾部の喜三郎のもとを訪ねて来た。総本部の総理・長沢雄楯に、因縁のある人物だから調べて来いと言われたという。
4月13日(諸説あり [3] )、喜三郎は生まれて初めて汽車に乗り、三矢の案内で静岡の長沢の宅へ向かった。
<書きかけ>
4月22日の夜、穴太の自宅に帰宅した。
「王仁三郎」の名の由来
まだ亀岡で幽斎研究を続けていた頃、ひそかに出修に行けという神示が降りた。そこで友人の斎藤だけに話して、母には心配しないように書き置きを残して出かけた。このとき書き置きに、ふと「鬼三郎(きさぶろう)」と署名した。後に綾部に来てからナオの筆先で「おにさぶろう」と命名されので、「王仁三郎」と名乗るようになった。[4]
戸籍上、正式に「出口王仁三郎」になったのは明治43年(1910年)の暮れである。
第一次大本事件以降
綾部町議に当選
大正14年(1925年)5月11日の綾部町会議員選挙に王仁三郎は立候補し当選する。定員20名に対して29名が立候補し、王仁三郎は55票を得てトップ当選した。『大本七十年史』は「綾部町労働者団の有志に推されて」と記しているが、『京都日出新聞』は「信者有志の者に推され」と報じている。大本関係者としては他に2名(岩田久太郎ともう1名)立候補したようである。[5] [6]
第二次大本事件以降
家族
澄子との間に男子2人・女子6人の子ができたが、そのうち男子2人・女子1人は小さい時に帰幽したので、一般的には子は女子5人と思われている。
続柄 | 名前 | 生誕日 | 帰幽日 | 年齢 |
---|---|---|---|---|
長女 | 直日(なおひ) | 明治35年(1902年)3月7日(旧1月28日) | 平成2年(1990年)9月23日(旧8月5日) | 88歳 |
二女 | 梅野(うめの) | 明治37年(1904年)5月30日(旧4月16日) | 不明 | 歳 |
三女 | 八重野(やえの) | 明治42年(1909年)5月1日(旧3月12日) | 平成10年(1998年)12月20日(旧11月2日) | 89歳 |
四女 | 一二三(ひふみ) | 明治44年(1911年)8月8日(旧閏6月14日) | 昭和2年(1927年)12月21日(旧11月28日) | 16歳 |
長男 | 六合大(くにひろ) | 大正2年(1913年)8月29日(旧7月28日) | 大正3年(1914年)4月9日(旧3月14日) | およそ7ヶ月 |
五女(四女) | 尚江(ひさえ) | 大正4年(1915年)3月5日(旧1月20日) | 昭和52年(1977年)7月28日(旧6月13日) | 62歳 |
二男 | 相生(すけなり) | 大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日) | 大正7年(1918年)8月25日(旧7月19日) | およそ5ヶ月 |
六女(五女) | 住之江(すみのえ) | 大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日) | 不明 | 歳 |
思想に影響を与えた人物
主な著作
単行本として出版されたものを中心に掲載した。これ以外に、機関誌で発表され、単行本化されていない著作も多数ある。
- 伊都能売神諭:大正7年(1918年)~8年に機関誌『神霊界』誌上で発表。
- 『王仁文庫』全10巻:大正9年(1920年)~10年刊。
- 『霊界物語』全81巻83冊:大正10年(1921年)
- 「錦の土産」:大正13年(1924年)作。
- 『王仁蒙古入記』:
- 『エス和作歌辞典』:
- 『霊の礎(たまのいしずえ)』:大正13年(1924年)刊。
- 『道の栞』:大正14年(1925年)刊。
- 『道の大本』:昭和2年(1927年)刊。
- 三鏡(次の3冊の総称)
- 「大鏡」:
- 『出口王仁三郎全集』全8巻:昭和8年(1933年)~10年刊。
- 『惟神の道』昭和10年(1935年)刊。
- 『愛善の道』(大本の道):昭和22年(1947年)刊。
- 『出口王仁三郎著作集』全5巻:昭和47年(1972年)~48年刊。
歌集
- 第1歌集『花明山(かめやま)』:昭和6年(1931年)刊。
- 第2歌集『彗星』:
- 第3歌集『故山の夢』:10歳から27歳にかけての出来事を詠んだ歌。
- 第4歌集『霞の奥』:昭和6年6~7月に発表された歌。
- 第5歌集『東の光』:
- 第6歌集『霧の海』:
- 第7歌集『白童子(はくどうじ)』:昭和6年8~12月に発表された歌。
- 第8歌集『青嵐(あおあらし)』:29歳の頃の出来事を詠んだ歌。
- 第9歌集『公孫樹(いちょう)』:昭和7年1~10月に発表された歌。
- 第10歌集『浪の音』:昭和8年(1933年)刊。30~31歳の頃の出来事を詠んだ歌。
- 第11歌集『山と海』:昭和7年9月~8年4月に発表された歌。
- 第13歌集『月照山』:昭和17年後半~19年末に詠んだ歌。
- 第14歌集『百千鳥(ももちどり)』:昭和8~10年にかけて詠んだ歌。内容は明治35~39年の回顧歌。
- 『言華(げんか)』:昭和3年1月~10年12月に詠んだ歌。
- 『東北日記』全8巻:昭和3年(1928年)に北陸~東北~北海道~樺太を巡教した時に詠んだ歌。
- 『朝嵐』:昭和35年(1960年)刊。第二次大本事件回顧歌集。
- 『二名日記』:
- 『日月日記』(全13巻):
- 『庚午日記』(全11巻):
- 『更生日記』(全12巻):
- 『壬申日記』(全8巻):
(歌集の主なものは「みいづ舎」で覆刻版が出ている)
伝記
出口王仁三郎の人生を記した伝記や研究書には、主に次のものがある。
- 大本教学院・編纂『聖師伝』昭和28年(1953年)、天声社
- 出口和明『大地の母』全12巻、昭和44年(1969年)~46年、毎日新聞社
- 出口京太郎『巨人出口王仁三郎』昭和42年(1967年)、講談社
- 村上重良『出口王仁三郎』昭和48年(1973年)、新人物往来社
- 伊藤栄蔵『大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯』昭和59年(1984年)、講談社
- ナンシー・K・ストーカー『出口王仁三郎 帝国の時代のカリスマ』平成21年(2009年)、原書房
脚注
- ↑ 「故郷乃二十八年 〔四〕上田の家庭」による。
- ↑ 「配札(はいさつ)」とは御札を配ること。
- ↑ 喜三郎が初めて長沢雄楯と会った日は、文献によって異なる。
(1) 霊界物語では穴太を出発したのは4月13日で、穴太に帰ったのは4月22日の夜である。第37巻第20章「仁志東」/a048#:「三矢の案内で愈同月の十三日、穴太を立つて」「一週間許り世話になつて、二十二日の夜漸く穴太の自宅に帰る事を得た」。
(2) 『神霊界』大正8年(1919年)8月15日号掲載の「随筆」p14によると、4月15日に出発し、16日に長沢から鎮魂帰神の高等得業の証を受けた。{obc|B195502c110708|随筆『神霊界』大正8年8月15日号掲載}}:「同月十五日東上して、長沢氏に合ふたのである」「長沢氏より四月十六日、先生に逢つた翌日、直ぐに「鎮魂帰神の高等得業を証す」と云ふ辞令を頂いて」。
(3) 「本教創世記」では4月15日付で喜三郎は中監督に任ぜられ、4月28日に出発。3日間滞在したというので、5月1日に穴太に帰ったことになる。第十章 幽斎修業#:「四月の二十八日に三ツ屋の案内にて、始めて参閣する事となったのである」、第十一章 出発#:「しかしただの三日の逗留であったから」。
(4) 「大本年表」は「本教創世記」と同じく、4月15日に中監督に任ぜられ、4月28日に出発。
(5) 『大本七十年史』では詳しい日付は書いていない。『大本七十年史 上巻』「稲荷講社と本田親徳#」 - ↑ 『大本七十年史 上』P156-157
- ↑ 『京都日出新聞』大正14年(1925年)5月8日夕刊(9日付)p2、同5月12日夕刊(13日付)p2。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「国内宣教と造営#」