第一次大本事件

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正月五日天

第一次大本事件(だいいちじおおもとじけん)とは、大正10年に政府が大本を弾圧した事件。当局は出口王仁三郎ら3人を不敬罪等で検挙し、本宮山神殿を不当な命令で破却した。王仁三郎に懲役5年の判決が出たが、昭和2年に免訴となり、法的に無罪となって事件は終結した。

略史

〔『大本七十年史 上巻』第三編#を元に作成した〕

事件の背景

─大本の爆発的成長と社会不安─

大正初期、大本は丹波の綾部の小さな地方教団に過ぎなかったが、第一次世界大戦の変動期において急成長を遂げた。大正6年(1917年)に機関誌『神霊界』を発刊し「大正維新」をスローガンに大々的な宣伝活動を展開した結果、大正8年に2万5千人と言われた信者が1年間で30万人に達したと言われるほど信者が急増した[1]

この時期、日本社会は激動の中にあった。第一次世界大戦(大正3~7年)による大戦景気(同4~9年)と戦後恐慌(同9年)、物価騰貴に伴う米騒動(同7年)、労働運動や社会主義思想の台頭、スペイン風邪の大流行(同7~10年)などにより、深刻な社会不安が生じていた。原敬内閣(同7~10年)や警察当局は、こうした人心の動揺を背景に、既存の宗教や教育が力を失う中で、大本が急速に勢力を拡大していることを非常に危険視していた。

特に大本が説く「立替え立直し」という現状打破の思想や、知識人・軍人層が続々と入信して行く状況は、政府にとって国家転覆の陰謀や危険思想の温床に見えた。

事件への序曲

─当局による調査と最初の警告─

検挙に先立ち、当局は大正8年(1919年)から二度に亘って大規模な調査を行っている。

【第一回調査(大正8年2月)】京都府警察部長の藤沼庄平の指示により、捜査官が綾部で出口王仁三郎浅野和三郎らに尋問した。調査の焦点は、「皇道大本は宗教か」「世の立替えとは何か」「綾部が帝都になるとは本当か」といった点にあった。このとき王仁三郎らは、日本と世界の戦争(日米戦争)の予言や、私有財産制の廃止、貨幣制度の廃止を伴う理想社会の到来などを陳述した。

【第二回調査(大正8年3月)】一回目の調査から三週間後に当局は王仁三郎と浅野を京都府庁に召喚し、二回目の尋問を行った。王仁三郎は前回とは一転して、筆先の解釈の誤りを認め、過激な宣伝内容を改める姿勢を見せた。これは一部の教団幹部による独断的な筆先解釈を是正する意図もあったようである。

二度の調査により、警察当局は大正8年5月に最初の警告を発した。その内容は、社会の根本的変革を説く出版物や講演の禁止、鎮魂帰神法への注意など、大本の活動を厳しく制限するものだった。

検挙への動向と社会的包囲網

大正9年(1920年)に入ると、当局の監視はさらに強まった。内務省や警察は、大本を単なる宗教ではなく、一種の社会運動とみなし、その中心部を破壊することで教団を解体させようと画策していた。

この時期、言論界や他宗教からも大本への激しい攻撃が起こった。心理学者の中村古峡は大本を心理学的に分析して「迷信」と断じ、加藤確治という人物は「大本は内乱を企てている」とする事実無根の告発文を当局に提出した。さらに、貴族院の公正会(院内団体)や、右翼団体の大正赤心団(政友会の院外団)も大本を危険視し、政府に厳重な取り締まりを要求した。

大正9年8月、内務省は『大本神諭(火之巻)』を不敬および過激思想の容疑で発売禁止とし、各府県に厳重な取り締まりを訓令した。そして大正10年1月、検事総長の平沼騏一郎によって最終的な検挙命令が下された。

事件の勃発

─一斉検挙と家宅捜索─

大正10年(1921年)2月12日未明、武装警官200人が動員され、綾部・亀岡・京都など20数カ所に対して一斉に家宅捜索が行われた。

【幹部の逮捕】出口王仁三郎は大阪梅田の大正日日新聞社で社長として執務中に、浅野和三郎吉田祐定は綾部の自宅でそれぞれ逮捕され、京都監獄[2]の未決監に収容された。

【大規模な捜索】警察は綾部で筆先の原本や写真、往復書簡、さらには神体の一部や日本刀、多額の現金などを押収した。捜索は厳重を極め、畳を剥がし、床下まで点検が行われた。特に黄金閣の地下室などは、世間に噂が広まっていた「生き埋め」や「紙幣偽造」の証拠を探すために徹底的に調査された。しかし怪しいものは何も発見されなかった。

この検挙は、綾部からの電話や電報が遮断される中で極秘かつ電撃的に行われ、まるで戒厳令下のような異様な光景となった。

罪状と予審決定

─不敬罪の強引な適用─

逮捕された3人は、不敬罪および新聞紙法違反で起訴された。大正10年5月の予審決定[3]では、大本の教義が他宗教の剽窃であると断定され、さらに機関誌『神霊界』に掲載された大本神諭の中の特定の語句が「天皇の尊厳を冒涜するもの」とされた。

具体的には、大本神諭にある「大将」や「上から」といった言葉が天皇を指すと解釈され、それらが現代の政治や軍隊を批判していることが不敬にあたると断じられた。しかし、これらの解釈は警察当局による一方的な推断であり、大本側は「大将とは神界の存在を指すもので、現界の天皇を指すものではない」と強く反論した。

また、この時期に発表された「大本教改良の意見」は、王仁三郎が当局の威圧や教団の崩壊を避けるために、心ならずも筆先の焼却や改称を認めたものだったが、これは教団内外に大きな衝撃と混乱をもたらした。

社会的制裁と施設の破壊

事件後、大本に対する社会的制裁は苛烈を極めた。

【メディアの攻撃】大本検挙は報道が禁じられた。5月の予審決定と共に記事掲載禁止が解除されると、全国の新聞は「謎の大本教」「淫祠邪教」「国家転覆の陰謀団」といった捏造と中傷に満ちた記事を連日報じた。

【信者への迫害】軍人信者は軍隊から一掃され、官公吏も退職や左遷を余儀なくされた。地方の信者たちも、親族からの勘当、村八分、登校拒否に追い込まれるなど、厳しい社会的差別に晒された。

【本宮山神殿の破壊】大正10年10月、当局は明治初期の古い法令を持ち出し、綾部の本宮山に建立されていた壮麗な神殿の破壊を命じた。武装した兵士や警官が監視する中、神殿は土足で踏みにじられ、解体された(→「本宮山神殿#取毀」)。この破壊の光景は、信者たちにとって耐え難い悲痛な出来事となった。さらに、開祖・出口なおの墓も「桃山御陵に似ている」という理由で改修を強制された。

裁判の経過と事件の結末

第一審で王仁三郎には不敬罪として懲役5年、浅野和三郎には懲役10ヶ月という厳しい判決が下された。大本側は即日控訴し、裁判は泥沼化した。第二審も一審通りの判決だった。

大審院で上告審が継続していた大正15年(1926年)に大正天皇が崩御。それに伴う昭和2年(1927年)の大赦令により、王仁三郎らは免訴となり、6年以上に及んだ法廷闘争は形式的には終結を迎えた。

しかし、この事件は大本に深い傷跡を残した。教団内では、現実的な立替え説を信じていた浅野派の離脱や、組織の再編が行われた。その一方で、この苦難の時期に王仁三郎は新たな教典となる『霊界物語』の口述を開始しており、教団は沈滞を余儀なくされつつも、次なる発展への基盤を模索することになった。

関連項目

脚注

  1. 大本七十年史 上巻』「事件のあらまし#」:〈一九一九(大正八)年に二万五千人であった信者が一年間で三〇万人と号するにいたったといい〉:ただしこれは弾圧を行った当局側の数字であって(大本を危険視するため勢力を誇大に見せている)、実際の信者数はこれよりはるかに少なかったようである。
  2. 大正11年11月「京都刑務所」に改称。
  3. 予審決定とは、予審における判決のようなもの。