賀露

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
賀露ヶ浜歌碑から転送)
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賀露ヶ浜歌碑。2012年撮影。
昭和12年に鳥取市に合併される前の賀露村の位置。

賀露(かろ)は、鳥取県の千代川(せんだいがわ)の河口西側の地名。霊界物語に「加露ケ浜(かろがはま)」が登場する。また昭和42年に賀露神社境内に出口王仁三郎の歌碑が建立された。

概要

  • 昭和12年(1937年)2月までは鳥取県気高郡(けたかぐん)賀露村(かろそん)。それ以降は鳥取市賀露町。
    • 明治以前から「賀露」と呼ばれており、明治22年(1889年)10月に町村制施行によって高草郡(たかくさぐん)賀露村が誕生。明治29年(1896年)4月に高草郡と気多郡(けたぐん)が合併して気高郡となる。昭和12年(1937年)2月に鳥取市に編入され、旧村域は鳥取市賀露町となる。
  • 霊界物語では「賀露」ではなく「加露」と表記され、「加露ケ浜」という地名で登場する。
  • 賀露ヶ浜(霊界物語では加露ケ浜)は、世間一般には「賀露港(かろこう、かろのみなと)」と呼ばれる場合が多い。現在の鳥取港である。
    • 鳥取港(旧・賀露港)はもともとは千代川の河口にあったが、平成2年(1990年)に千代川の河口と港湾を分離する工事が完了し、現在の形状になった。[1]

霊界物語での主なエピソード

明治34年(1901年)7月(旧5月)出雲火の御用出雲大社へ向かった出口直王仁三郎ら一行15人は、千代川を汚い舟に乗って加露ケ浜に出て、加露ケ浜から舟で三保の関に行こうとした。しかし荒天のため加露ケ浜の船問屋(雲井旅館)に泊まることにした。

旅館には伊東祐亨(いとう ゆうきょう/すけゆき)海軍中将[2]が山陰沿海視察のため泊まっており、出口直は筆先を一枚書き宿屋の主人を通して伊東中将に、よく調べてくれと渡したが、その後何の返答もなかった。

王仁三郎は夜中頃に妙な夢を見た。それは際限なき原野に立っていると東から大きな太陽か月が昇り、だんだんこちらに近づき、澄子の懐へ入った夢だった。この時すでに澄子は妊娠しており、翌年3月に女の子(直日)が産まれたので、朝野に立っていた夢を思い出し「朝野(あさの)」と名付けた。

結局7月6日から8日まで三日間逗留したが、天気が回復しないためコースを陸路に変更し、10里ほど歩き、鳥取県東伯郡橋津村(現・湯梨浜町橋津)から舟に乗って三保の関へ向かった。〔以上第38巻第28章金明水#、『大本七十年史 上巻』「出雲の火のご用#」〕

霊界物語には記されていないが『大地の母』では、出口直・王仁三郎一行は賀露神社に参拝している[3]

一行は出雲大社に参拝し終わり、帰途は賀露は経由せず、はるか東方の浦富[4]から上陸している。

出口王仁三郎の歌碑

昭和42年(1967年)7月6日、賀露神社境内に出口王仁三郎の歌碑(史蹟歌碑とか賀露ヶ浜歌碑と呼ばれる)が建立された。縦1m40cm、横2m30cmの青御影石[5]

歌は〈海鳥《うみどり》の声かしましく賀露ケ浜のあしたになきて波の音《おと》高し〉。

歌碑の台座には次のような「建碑趣旨」が彫られている。

明治三十四年七月六日旧暦五月二十一日大本開祖出口直子刀自一行十五人は神代よりの消えずの火の御用のため出雲大社への往路当地に到着、三日間逗留された。その間出口王仁三郎聖師には三代教主御出生に因む日輪受胎の厳かな霊夢を見る等の神秘があった、碑面の歌は、昭和八年一月聖師が往時を偲んで詠まれた賀露ケ浜回顧歌十首中より選んだもので文字は出口直日師の筆である

昭和四十二年七月六日

  賀露ヶ浜大本史蹟碑建立有志

賀露神社

  • 鎮座地:鳥取市賀露町北1-21-8
  • 祭神:次の五柱。
    • 大山祇命(おおやまづみのみこと)
    • 吉備真備命(きびのまきびのみこと)
    • 猿田彦命(さるたひこのみこと)
    • 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
    • 武甕槌命(たけみかづちのみこと)

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 鳥取港 - 鳥取県港湾課
  2. 霊界物語には「中将」と記されているが、厳密に言うと明治31年に大将に昇進している。日清戦争(明治27~28年)で連合艦隊司令長官を務めたが、その時は中将だったので、そのイメージが残っていたか?
  3. みいづ舎版『大地の母 第7巻』「朝陽の夢」162頁〈午後三時頃、幸吉の先導で賀露神社(祭神・木の花咲耶姫)に参拝。潮風にさらされた、枝ぶりのおもしろい松林の境内を逍遥した〉
  4. 第38巻第28章金明水#に〈岩井の磯ばた〉と書いてあるが、浦富だと思われる。大地の母では〈十六日朝、浦富海岸に上陸した〉としている。
  5. 大本教学』第7号収録「出口王仁三郎聖師歌碑集録(木庭次守・記)」(昭和45年2月現在の情報)