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出雲大神宮
,→戦前の宮司
** 王仁三郎の歌集の中に藤木宮司が出て来る。→「[[#王仁三郎との関わり]]」
* 明治44年(1911年)5月23日 広瀬侍郎(じろう)<ref>広瀬は禰宜だったが宮司へ昇格。前宮司の藤木は高良神社(筑後国一宮。久留米市)の宮司へ転勤。</ref> <ref>官報 明治44年(1911年)5月24日574頁下段右 {{ndldl|2951731/1/2}}</ref> <ref name="kubota_p17">名「じろう」「のりとし」の読み方は窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」17頁による</ref>
** 広瀬侍郎の名は『[[庚午日記]]』で王仁三郎が姓名読込み歌として歌っている。〈惟神道も広瀬の宮司仕ふるいさをもいち侍郎きかな〉<ref>『[[庚午日記]] 二の巻』269頁、昭和5年(1930年)3月10日の条、{{ndldl|1086391/1/157}}</ref>。その前の頁にも広瀬宮司が宗教博に来たことに関する歌がいくつかある。<ref>『[[庚午日記]] 八の巻』9月10日条にも広瀬宮司が歌われている。</ref>
** 広瀬侍郎の略歴:〈明治八年七月千歳村に生る。亀岡高等小学校卒業後専ら国史を学んだ。氏の祖先は今より千二百前国幣中社出雲神社の出雲大社より遷座の際、出雲大社社家広瀬氏より分れて来た名家である。 氏は国幣中社出雲神社主典、禰宜、梅の宮禰宜を経て現在出雲神社宮司となったもので、資性怜悧、社交を善くし、特に歌道に長じ、府下神職会のオーソリチーと呼ばれて居る。〉<ref>『丹波及丹波人』昭和6年(1931年)、丹波青年社、574頁、{{ndldl|1108651/1/331}}</ref>
* 昭和8年(1933年)9月16日 広瀬伯紀(のりとし)<ref>官報 昭和8年(1933年)9月18日434頁三段目 {{ndldl|2958488/1/3}}</ref> <ref>広瀬侍郎は依願退職。伯紀は侍郎の息子。</ref> <ref name="kubota_p17" />