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たまほこのひ可里
,→王仁三郎の対応
== 王仁三郎の対応 ==
昭和17年(1942年)8月7日に王仁三郎は出獄して亀岡に帰宅した。その一ヶ月後の9月7日に[[佐藤紋次郎]]は王仁三郎に面会したことが、歌集『[[月照山 (歌集)|月照山]]』に記されている<ref>『[[月照山 (歌集)|月照山]]』(発行・愛善苑、1993年)362~365頁「怪奇録」</ref> <ref>『誰も~』270頁</ref>)。その中で王仁三郎は、佐藤を狂人扱いし、以後は面会しないと決めて茶も与えずに追い返した、と歌っている。
王仁三郎は佐藤が話したこと(つまり『たまほこのひ可里』に書いてあること)を否定する態度を取っている。これについて[[出口和明]]や[[出口恒]]は、当局の目をそらすためにわざと佐藤を狂人扱いして追い返したのではないかと推測している<ref>出口和明「明らかになった『たまほこのひ可里』の編纂」『[[神の国]]』平成10年(1998年)9月号23頁。『誰も~』272頁</ref>。当時の王仁三郎は[[第二次事件]]の裁判中であり、また戦時中であって、王仁三郎は当局の厳しい監視下にあるため、孝明天皇の予言を叫ぶ者が王仁三郎に接触していたら、王仁三郎や佐藤はもちろん、周りの信者たちも取り調べを受けるようなことになりかねない。また「[[女天一坊事件]]」(閑院宮の落胤と偽る女による詐欺・不敬事件)がその時進行しており、当局は一層警戒していたと考えられる。