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本宮山の三基の石碑

21 バイト追加, 2023年11月26日 (日) 04:26
略史
三基のうち向かって右側の'''教碑'''は、大正9年(1920年)6月に仙台の千代分所から献納された6.75トン(1800貫)の仙台石で造られている。王仁三郎によって大書された[[大本教旨]]「神者萬物普遍の霊にして人波天地経綸能大司宰也 神人合一志天茲に無限乃権力を発揮⦿ 王仁誌」が刻まれ、五六七殿の東側に伏せて置かれていた。大正12年(1923年)12月9日、本宮山の山頂に引き上げられたが、建てることはせず、文字面を伏せてそのまま置かれた。
中央の'''神声碑'''と左側の(しんせいひ)と左側の'''歌碑'''は5.625トン(1500貫)の仙台石に、昭和6年(1931年)8月8日から彫り始め、9月1日に彫り終わり、本宮山に引き上げられた。神声碑は上の方に「うぶこえ」と横書きされ、下に「三せんせかいいちどにひら九うめのはな もとのかみよにたてかえたてなをすぞよ すみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよ めいじ二十五ねんしようがついつか で九ちなお」と刻まれ、歌碑には「盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほととぎす昼よるを啼く」「よしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男の子の品は落さじ」という二首の和歌が刻まれた。一番目の歌は入蒙の時にパインタラで詠んだ辞世の歌である。
同年9月8日、三基の石碑は建立された。この時、王仁三郎は「これから十日後に大きな事件が起き、それが世界的に発展する」と発言した。その言葉通り、9月18日に[[満州事変]]が勃発し、戦争へと発展して行った。

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