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比沼麻奈為神社

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比沼麻奈為神社は[[久次岳]](ひさつぎだけ、標高541m)の東麓に鎮座している(麓の標高は50m前後)。
「太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊(クシビ))の里と呼ばれていた」が、これが後に「久次(くし)の里」、そして「久次(ひさつぎ)」と呼ばれるようになった。「太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊《クシビ》)の里と呼ばれていた」が、これが後に「久次《くし》の里」、そして「久次《ひさつぎ》」と呼ばれるようになった。<ref name="manaijinjya_pamphlet">比沼麻奈為神社の由緒書(パンフレット)</ref>
久次岳は「九州の天忍穂井(アメノオシホイ)の真名井の霊水を移された清水の湧き出る霊峰」<ref name="manaijinjya_pamphlet" />であるため、「真名井岳」とも呼ばれる。
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同社の中沢起一郎宮司によると、起一郎氏が四歳(数えか)のとき神学者でもあった父捨治(すてはる)氏が昇天されたので、神職の中継を祖母が出口聖師に依頼され、三弟幸吉さまが神職の資格を得ていたので、派遣されたという。京都・皇典講究所の連りがあっての依頼で、大正四年から昭和十三年、第二次大本事件のさわりで退任されるまで、二十四年間奉職された。同社の中沢起一郎宮司によると、起一郎氏が四歳(数えか)のとき神学者でもあった父 捨治《すてはる》氏が昇天されたので、神職の中継を祖母が出口聖師に依頼され、三弟幸吉さまが神職の資格を得ていたので、派遣されたという。京都・皇典講究所の連りがあっての依頼で、大正四年から昭和十三年、第二次大本事件のさわりで退任されるまで、二十四年間奉職された。
|大本教学研鑽誌『[[まつのよ]]』第4号(1999年発行)収録、[[三ツ野眞三郎]]著「花、天より高く(上)」p179
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丹波は元田場(たば)と書き、天照大御神が青人草の食いて活くべき稲種を作り玉うた所である。故に五穀を守ると云ふ豊受姫神は、丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に至りて、伊勢国山田に御遷宮になつたのである。丹波は元 田場《たば》と書き、天照大御神が青人草の食いて活くべき稲種を作り玉うた所である。故に五穀を守ると云ふ豊受姫神は、丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に至りて、伊勢国山田に御遷宮になつたのである。
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 雄略天皇の勅命によつて、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜ふ神幸の途次、曽我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿(しんよ)御駐輦(ごちゆうれん)あらせられたのである。(略) 雄略天皇の勅命によつて、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜ふ神幸の途次、曽我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿《しんよ》御駐輦《ごちゆうれん》あらせられたのである。(略)
 比沼真奈井神社の所在地は、太古は綾部の本宮山であつた。そして天真奈井川原(あめのまなゐがはら)と云ふのは、現今の和知川原(わちがはら)のことである。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡(なかごほり)久次村(ひさつぎむら)の真奈為ケ嶽の麓に神社の旧蹟を移遷したと云ふ伝説が古来行はれて居つたのである。然うすると、 比沼真奈井神社の所在地は、太古は綾部の本宮山であつた。そして天真奈井川原《あめのまなゐがはら》と云ふのは、現今の和知川原《わちがはら》のことである。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡《なかごほり》久次村《ひさつぎむら》の真奈為ケ嶽の麓に神社の旧蹟を移遷したと云ふ伝説が古来行はれて居つたのである。然うすると、<u>綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座</u>の途中、曽我部の郷に一時御旅所(おたびしよ)として御駐輦になつたのである。太古同社の神職は、綾部の出口家が奉仕してをつたと曰ふ事であるが、後世に至つて、山田の外宮に奉仕せる社家に出口姓が伝はつて居る。彼の有名なる神道家出口延佳(のぶよし)は、外宮の社家中で、最も重要なる家格の人であつたのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明社を創建して奉仕せし、藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来りて、出口家の相続者と成つたのも、不可思議な神縁であると思ふ。の途中、曽我部の郷に一時御旅所《おたびしよ》として御駐輦になつたのである。太古同社の神職は、綾部の出口家が奉仕してをつたと曰ふ事であるが、後世に至つて、山田の外宮に奉仕せる社家に出口姓が伝はつて居る。彼の有名なる神道家出口延佳《のぶよし》は、外宮の社家中で、最も重要なる家格の人であつたのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明社を創建して奉仕せし、藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来りて、出口家の相続者と成つたのも、不可思議な神縁であると思ふ。
|『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』「{{obc|B121808c07|穴太の名義}}」及び「{{obc|B121808c08|綾部の聖地}}」(原題「故郷乃弐拾八年」、『[[神霊界]]』大正10年2月号掲載)
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