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辻天水
,→略歴
* 日出麿が辻の実家を訪れた時、辻家の家紋が月と日と十字を組み合わせたもので、大本の裏紋とよく似ていたため、日出麿は驚いたという。(昭和5年11月27日に日出麿が菰野を巡教したという記録が「[[大本年表]]」にある)
* その数日後<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.199</ref>のこと。辻は和歌を詠むときの号として「天如(てんにょ)」と名乗っていたが、日出麿に「天水にしなはれ」と勧められ、天水に改めた。天=日=火とすると、天水とは火水(かみ)を意味する。
* 昭和9年(1934年)1月、娘の多鶴子(たづこ)が病死。妻のゆきは実家に帰った(昭和20年5月に逝去)。同年に日出麿が再び辻家を訪れた。昭和9年(1934年)1月、娘の多鶴子(たづこ)が病死。妻のゆきは実家に帰った(昭和20年5月に逝去)。<refname="nakaya_p199">中矢『大本裏神業の真相』p.199</ref>同9年2月7日、三雲家で辻が辻家伝来の刀を用いて剣の祭が行われた。その後その刀は辻によって王仁三郎に献上される。王仁三郎は刀の辻家の家紋を見て驚き、この刀を「神聖丸」と命名し、その後7月22日に発会した[[昭和神聖会]]の護り刀となった。<ref name="nakaya_p199" />* 同年(月日不明)日出麿が再び辻家を訪れた。<ref name="nakaya_p199" />
* 昭和10年(1935年)、辻は大本の奉仕者として、神号を認めたり、辞令を浄書する仕事に従事していた。そこへ王仁三郎が立ち寄った。辻は宣伝使を拝命したいと申し出たが、王仁三郎に「それはあかん」「ここにおれ。お前には重要な使命がある」と言われた。数日後、再び王仁三郎が辻の仕事場やって来た。辻は紙に「大本皇大神」と神号を書くところを、どうしたわけか「大」と「本」の字間を大きく離して書いてしまった。すると王仁三郎は筆をとり、「大」と「本」の間に「日」の字を書き入れ「大日本皇大神」とした。王仁三郎は辻にその書をやると言い「いずれ大事な時に使うことになる」「一厘の仕組をあんたにやってもらう」「わしが捕まったら神業の続きをする者がおらん。そやからわしの代わりに裏の神業をやってくれ」と辻に言った。<ref>豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.41-42</ref>
* 第二次大本事件以降もしばらくは亀岡を離れず、学校の教員をしながら大本の動向を見守っていた。