差分

Jump to navigation Jump to search

笹目秀和

535 バイト追加, 2023年11月2日 (木) 17:10
略歴
*明治35年(1902年)1月31日、茨城県生まれ。中央大学法学部に入学。
*大正13年([[1924年]])8月、22歳、大学生の笹目は中国大陸を旅行した。そのとき[[白頭山]]([[長白山]])の呂霊棘(リョリンライ)神仙の招きで、白頭山に登る。呂霊棘神仙(年齢207歳)は白頭山頂の湖(天池)のほとりの巨大な洞窟に弟子たちと住んでおり、その影響力は広範囲に及び、当時「満州王」と呼ばれていた)の呂霊棘(リョリンライ)神仙の招きで、白頭山に登る。呂霊棘神仙(年齢207歳<ref name="nenrei">『モンゴル神仙邂逅記』では、呂霊棘神仙の年齢は「二百七歳」(p.20)、疏勒神仙の年齢は「五百歳近いのではないか」(p.249)。霞ヶ関書房版『神仙の寵児 第三巻』では、呂霊棘神仙の年齢は「二百歳」(p.27, p29, p78)、疏勒神仙の年齢は「四百歳を越え」(p.78)。文献によって年齢の表現が異なるが、いずれも正確な年齢ではなく、大ざっぱな年齢である。</ref>)は白頭山頂の湖(天池)のほとりの巨大な洞窟に弟子たちと住んでおり、その影響力は広範囲に及び、当時「満州王」と呼ばれていた[[張作霖]]も一目置く存在であった。
*笹目は呂霊棘から、三千年来に及ぶ笹目と天池の関係と、来たるべき未来に向けて笹目がやるべきことについて教えられた。笹目は普通の人が送るような生涯を送れないこと、日本国のカルマ(業)を背負って、常人にはとうてい耐えることの出来ない苦労をしなければいけないこと、その苦境から脱出する鍵は、12年後に会うことになる[[崑崙山]]の疏勒(シュロ)神仙から授けられること、などを聞かされた。また、3000年前の前世の名前は「熊埜御堂」(くまんみたん)だと教えられる。そして「月の精を食(は)む法」を伝授された。
*下山(8月16日)した後、モンゴルへ行く。春に日本から大ラマ僧がやって来てたいへんな騒ぎだったという話を耳にする。それは[[出口王仁三郎]]のことだった。(王仁三郎の[[入蒙]]は2月~6月)
*昭和10年([[1935年]])12月、[[崑崙山]]に向け出発する。[[白頭山]]で呂霊棘(リョリンライ)神仙に会ったとき、12年後(昭和11年)に崑崙山の疏勒(シュロ)神仙を訪ねて今後のことを相談するように言われたからである。12月4日(第二次事件の4日前)、日本を発つ前に綾部で王仁三郎と会う。すると王仁三郎から、大本の御神体を崑崙山に鎮めるよう頼まれる。その夜、[[出口日出麿]]から、崑崙山での任務を聞かされる。
*翌日12月5日早朝、竹筒に入った大本の御神体を王仁三郎から預かり<ref>[[出口和明]]『[[出口なお・王仁三郎の予言・確言]]』254頁に「十二月四日の真夜中、王仁三郎がひそかに亀岡・[[天恩郷]]のオリオン星座にちなむ[[月宮殿]]に入り、ご神体を他の石と取りかえるのを側近[[内崎照代]]が目撃している。これは厳秘とされ、他へはもらされなかった。」と書いてある。『[[大本七十年史]] 下巻』376頁には「(聖師は)四日には日出麿夫妻と綾部にかえった」と書いてある。4日の夜、綾部にいたのか亀岡にいたのかはっきりしない。</ref>、日本を発つ。(王仁三郎は翌6日、松江に向け出発。8日、松江の[[島根別院]]にて検挙される<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』376頁</ref>)
*笹目は半年ほどかかり翌年6月中旬に、疏勒神仙が住む疏勒南山(青海省)に到着する。そこから更に20日間ほどかけて疏勒民族のいる集落に辿り着く。笹目は疏勒神仙(約500歳)から「太陽の精を食(は)む法」を教えらた。崑崙山脈のココシリ山に大本の御神体を鎮め、7月4日に疏勒神仙と別れた。笹目は半年ほどかかり翌年6月中旬に、疏勒神仙が住む疏勒南山(青海省)に到着する。そこから更に20日間ほどかけて疏勒民族のいる集落に辿り着く。笹目は疏勒神仙(約500歳<ref name="nenrei" />)から「太陽の精を食(は)む法」を教えらた。崑崙山脈のココシリ山に大本の御神体を鎮め、7月4日に疏勒神仙と別れた。
*戦争後、ソ連により抑留され、シベリアで11年4ヶ月の強制収容所の生活を送る。
*昭和32年([[1957年]])に帰国。東京都奥多摩の大岳山に[[多摩道院]]を開き、活動を行なう。

案内メニュー