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== 著述の動機 ==第2巻「序」<ref>{{rm09|2|0001|序||a090|a113}}</ref>によると──大正10年(1921年)旧9月8日(新10月8日)王仁三郎に神命が降り、明治31年如月(旧2月)に神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよという神教に接したため、24年間胸中に蓄蔵していた霊界の物語を発表する決心を定めた。霊界物語は基本的に、明治31年(1898年)の[[高熊山修業]]の際に[[王仁三郎]](当時は上田喜三郎)の霊眼に映じた霊界の出来事を記したものである。
しかし王仁三郎は春以来、目を病み、頭痛がして、執筆しようとすると、たちまち目と頭に痛苦を覚えるという状態であり、着手できなかった。十日後の旧9月18日(新10月18日)朝、神教があり(天津神の神示と開祖神霊の請求があったその物語は明治32年7月から33年8月にかけて一度執筆された。その数は500余巻に上る<ref>{{rm09|735|0001|序文}}:「顧みれば大正十年十月十八日(旧暦九月十八日)'''天津神の神示と開祖神霊の請求により'''」:「五百有余巻」。和綴じの冊子で500余だと思われる。{{rm|1|9|雑草の原野}}には、霊界で見た光景だが「五百六十七」冊と記されている。</ref>。秘蔵され、2~3人の熱心な信者のみに閲覧を許していた。しかしこれを読んだ一部の者が全部焼き棄ててしまった。その後再び筆を執ろうと思ったが、神界から許されなかった。<ref>{{rm09|5|0001|序文}}による。</ref>)、神は口を借りて口述するから、[[外山豊二]]・[[加藤明子]]・[[桜井重雄]]・[[谷口正治]]の4人に筆録させよということだった。
そこで意を決し、大正10年(1921年)旧9月8日(新10月8日)王仁三郎に「明治31年に神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」という神命が下ったため、霊界の物語を発表する決心を定めた。しかしその年の春から<ref>王仁三郎は大正10年2月12日から6月17日まで投獄されていたが、春ということは、監獄の中で、ということになる。</ref>目を病み、頭が痛み、執筆が自由に出来なかった。無理に執筆しようとすると、たちまち目と頭が痛くなるという状態であった。そのため神命が降ってもすぐに着手せずにいたところ、17日の夜、寝ている王仁三郎の枕元に教祖(出口直)の神霊が現れ、指示棹で畳を3~4回、馬に鞭打つように叩いた。王仁三郎は直ちに起き上がり「明日から口述に着手しますから安心して下さい」と言うと教祖はニッコリとして姿を隠した。18日の朝に神教があり「汝は執筆しなくてよい。神は汝の口を借りて口述するから、[[松雲閣外山豊二]]で神示を口伝えすることになった。・[[加藤明子]]・[[桜井重雄]]・[[谷口正治]]の4人に筆録させよ」と命じられ、その日(新10月18日)から口述・筆録という方法で霊界物語の著述が開始された。<ref>{{rm09|2|0001|序}}及び{{rm09|8|0003|総説}}による。</ref> <ref>{{rm09|73|0001|序文}}には「顧みれば大正十年十月十八日(旧暦九月十八日)'''天津神の神示と開祖神霊の請求により'''」と記されている。</ref>
霊界物語
,→著述の動機
** [[第二次大本事件]]で投獄されていた王仁三郎は側近に手紙を出し(時期不明)、タイプライターを習っておくようにと命じた。出獄後、霊界物語の残り39巻を口述するつもりだったようである。<ref>王仁三郎の側近・[[三浦玖仁子]]の回想記『[[花いろいろ]]』p41-42:「ある日のことです。聖師さまからお便りを通し、「わしはタイプが必要だからタイプを習っておいてくれ」とのお指図を頂戴したのです。私は、さっそく藪内家(編注・この当時、三浦は京都の藪内家に住んでいた)から市内のYMCAへタイプを習いに通いました。あとで伺ったことですが、聖師さまは─刑務所から出てから、あと四十巻ほど物語を出す─ご予定だったのです。その内容は─刑務所の中のことを面白く風刺して書く─はずであったのです。そのためにタイプを勉強しておくようにお命じになったのですが、結局、そのご計画も、ご無理がたたり実現するにいたりませんでした」。このエピソードの直後に昭和15年(1940年)2月29日の第一審判決のことが記されているので、昭和11~14年の間のエピソードか?</ref> <ref>和文タイプライターは大正4年(1915年)に商品化されている。</ref>
== 著述時期 ==