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悟善社
,→概要
(略)
本会は道院紅卍字会と同じく兵災に悩む難民の救済等に力を尽して居る。(略)従つて国民政府の云ふ如く一口に迷信団体として排斥すべきではない。今日支那では社会救済慈善団体として相当勢力を存して居る。|末光高義『[[支那の秘密結社と慈善結社]]』1932年5月、満洲評論社、p288』昭和7年(1932年)5月、満洲評論社、p288-258「第十九 悟善社」}}
{{Inyou|小冊子『救世新教』によれば民国八年閏七月、河南の広善壇信士王錦渠・迮以増・鄭景樵の三名が、壇命を奉じて北京に来て、北京の信士張恩寿、周学士、朱煥文等ともに悟善総社を開創した。当時、たまたま「五星聯珠」(五教合一の瑞祥)の乩示があり、五教教組が降って乩示があり「天意によって重任が寄托され、勧世文章を刊行し、その勧世文章が収録される『霊額要誌』の編輯刊行の命があった。信徒は多く、社事は益々進んだ。(略)凡そ行善のことは、ただ刦を救うだけで、如何にして教を興して刦を永久に化することができるかが大事であるので、悟善社が慈善団体であることから宗教団体へと改組し、なお従前通り慈善事業をも推進することとし、宗教団体として「救世新教」の名を定めた(民国十二年)。
(略)
民国十四年三月二十六日に、北京政府内務部の批准を経て、北京、和平門内呂祖閣東夾道、悟善総社内に救世新教総会を組織した。|酒井忠夫『[[酒井忠夫著作集]]6』2002年3月、国書刊行会、p916』平成14年(2002年)3月、国書刊行会、p91-128「第二章 悟善社、救世新教」}}
== 脚注 ==