21,338
回編集
差分
Jump to navigation
Jump to search
大石凝真素美
,→略歴
次の略歴は主に「大石凝真素美先生伝」(『[[大石凝真素美全集]] 第三巻』に収録)<ref>著者は不明だが、[[大宮司朗]]「大石凝真素美全集解題」(『大石凝真素美全集 解説編』収録)では、[[水野満年]]または国華教育社の同人の手によるものと推測している。</ref>(「伝」と略す)をもとにして作成した。他に[[水谷清]]『[[古事記大講]] 第六巻(天津金木学綱要)』p5-8も参考にした(「大講」と略す)。年齢は基本的に数え年である。
* 天保3年(1832年)11月<ref>天保3年11月はグレゴリオ暦だと1832年11月22日~12月21日。</ref>、伊賀国上野に生まれる。幼名は望月春雄。父は望月登で医業。母は川村文。祖父の幸智は中村孝道に仕えて言霊学を究めた。(「大講」では、若い頃の名は「平岩大助」)、伊賀国上野に生まれる。幼名は望月春雄。父は望月登で医業。母は川村文。祖父の幸智は[[中村孝道]]に仕えて言霊学を究めた。(「大講」では、若い頃の名は「平岩大助」)<ref>大宮司朗「「天津金木」秘占秘儀」(学研ムー1994年8月号)では、大石凝真素美に改名する前は「望月大輔」だとしている。</ref>
* 遠祖は日臣斎主命。大伴氏の後裔。世々天朝に仕えて来たが、大友皇子の乱(壬申の乱)に殉じ、以来隠者となり、望月を姓として伊賀・近江等に転住して来たという。
* 望月春雄は元服して、大輔広矛と改名する。父や伯父、叔父に医を学ぶ。しかし医で生涯を終えるつもりはなかった。足代弘訓(あじろ ひろのり)<ref>足代弘訓は、国学者。伊勢国山田に生まれる。父は伊勢神宮権禰宜。<kb>足代弘訓</kb> <wp>足代弘訓</wp></ref>の門に入り国学を学ぶ。