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大石凝真素美

サイズ変更なし, 2020年4月16日 (木) 21:05
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* 明治8年(1875年)秋(44歳)太玉太観と東上し、山岡鉄太郎を訪ねる。9年4月21日、誓火(うけひ)の霊験を実験するが太玉太観は失敗し、片手が焦げて失ってしまう。大石凝は帰途に就き、近江国甲賀郡毛牧村にて謹慎する。
* 再び大和国を巡遊する(大和三山に関する話は「古事記神秘之正説」に詳しい)。[[吉野山]]で金鉱を探す。
* 大和からの帰路、近江国野州の親戚を訪れる。海路から蒲生郡八幡に行こうとして、沖の島の南面を過ぎる時、水面に大きな波紋を見る(水茎文字。八幡に上陸後、陸路を沖の島の方面へ向かうと、小さな丘があった(水茎の岡)。その丘に登って諏訪湖を見渡すと、大波紋を一望できた。それは大石凝が修養した言霊学の音韻文字であった。→詳細は「水茎文字」大和からの帰路、近江国野州の親戚を訪れる。海路から蒲生郡八幡に行こうとして、沖の島の南面を過ぎる時、水面に大きな波紋を見る(水茎文字。八幡に上陸後、陸路を沖の島の方面へ向かうと、小さな丘があった(水茎の岡)。その丘に登って琵琶湖を見渡すと、大波紋を一望できた。それは大石凝が修養した言霊学の音韻文字であった。→詳細は「水茎文字」
* その後、五男神誕生の地である阿賀山と吾勝山を参拝する。→詳細は「[[蒲生]]」
* 明治11~2年(1878~9年)、再び[[山本秀道]]宅に寄寓し、天津金木と日本言霊を研鑽する。「日本言霊は先生独特の大研鑽にして、其の基く所の原本等は多少これありしなるべけれど、七十五声の排列、其の神機の妙用等は慥に先人未発の大発見にして(略)古今独歩の感あり」「天津金木は(略)開闢以来嘗て未だ世に知られざるの極法なり」<ref>「伝」p15-16</ref>。

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