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本宮村

1 バイト追加, 2018年11月29日 (木) 13:30
概要
王仁三郎は本宮村・本宮町の土地を次々と買収して行き、現在の綾部市本宮町は町域のほとんどが大本の神苑(梅松苑)になっている(ただし長生殿は上野町)。当時は人が多数住んでいたが、出口直や澄子から見たら、人間的にあまり良い村ではなかった。
{{Inyou| なお夫婦は二人とも他所者(よそもの)であり、しかも政五郎が人のよい放漫家だったので、周囲の人たちから意地悪くあしらわれた。「経歴の神諭」に「綾部の本宮村は人に憐みのない村であるぞよ。人が死なうが倒(こ)けようが、われさえ好けりゃ構わん人民ばかりであるから、改心を致さんと、世が治まりたら此村は悪党鬼村と名をつけて、万古末代悪の鏡と致すぞよ。」(明治27・1・3)とあるが、それが、なおからみた本宮村の実態であった。明治二〇年代の実態を伝えていると思われる、すみの『つきぬおもいで』によれば、三一軒の「私の村」(行政区画ではなく近所の家々をさすものとおもわれる)に、首つりが三人、殺人・強盗・ニセ札などで終身刑が三人、泥棒が四人、バクチ打ちが二人、それ以外に監獄に行ったものが三人、盲・半盲が七人、片輪が四人、健忘症・阿呆・ゴロ(唖)が各一人いた。そのほかにも、恋人と結婚できなくて婿をもらった暁に毒をのんで自殺した娘や、野壺の肥をとったことが知れて、それをせめられ、十両の金を枕元において自殺した女もいた。三一軒の家々のうちで二〇軒以上になんらかの不幸があり、「まともな人は二、三軒のものだった」(『おさながたり』)という。恋人と結婚できなくて自殺した義母ゆりをはじめ、不幸のたえない出口家自身が、こうした不幸や悲惨のひとつの典型であった。
 『おさながたり』には「そのころの本宮はそんなに多い家かずでもなかったのですが、宮津の監獄では綾部から来る人はみな本宮村からの人ばかりだと不思議がったということです」とのべている。むろん右にのべた事情は主として明治二〇年代の状況を示すものであって、経済的・社会的激動によってもたらされた側面を無視できないが、出口家の所在したあたりは、幕末期から既にならず者集落的性格をもち、不幸な人々が集まってくる地帯であったようである。なおの伝記関係の史料には、周囲の人々に対する尊敬や信頼を示すものはほとんどみられず、村人から非道にあつかわれた記事が多い。|『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1134|労苦の連続}}」 }}

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