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梅松苑

6,963 バイト追加, 2018年11月13日 (火) 12:51
ページの作成:「'''梅松苑'''(ばいしょうえん)は、大本二大聖地の一つで、祭祀の拠点。京都府綾部市(旧・何鹿郡綾部町)にあ...」
'''梅松苑'''(ばいしょうえん)は、[[大本]]の[[二大聖地]]の一つで、祭祀の拠点。京都府[[綾部]]市(旧・何鹿郡綾部町)にあり、出口直開祖が住んでいた家(元屋敷)を中心に造営された、大本の発祥地である。

梅松苑と命名されたのは昭和20年12月であり、それまでは固有名詞はなく、単に「綾部の大本」「綾部の神苑」等と呼ばれていた。

== 造営 ==

[[出口直]]開祖が明治27年(1894年)10月に[[艮の金神]]を初めて祭ってから(ただし金光大神と併祭)広前は綾部町内を点々と移っていたが、明治32年(1899年)12月に[[大島景僕]]の土地家屋([[元屋敷]]の隣り)を買い受け、33年11月に広前を遷す。この家は筆先によって「[[竜門館]]」と名付けられた(竜宮館とも呼ぶ)。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1523|金明霊学会}}」</ref>

[[王仁三郎]]は明治38年頃から綾部を出て、神社や他の教会で働いたり、大本の宣教活動をしていたが、明治41年12月に[[帰綾]]して教団づくりに専念し出す。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2112|王仁三郎の帰綾}}」</ref>

41年6月に「雑のお宮でよいから早くしてもらいたい」とお宮造りを急がす[[筆先]]が出たため、竜門館の隣接地360坪を買い入れ、同年7月1日に地鎮祭を行う。12月に王仁三郎が帰綾してからにわかに広前が活気づき、手狭になったので、神殿建築の話が持ち上がり、明治42年(1909年)旧1月に神殿新築が決定され、11月22日に落成式と遷宮式が行われた。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2114|造営と宣教}}」</ref> <ref name="oomoto_nanpyo">「大本年表」</ref> (この綾部の最初の神殿は、後に[[金竜殿]]が建設されると「[[旧本殿]]」と呼ばれるようになる)

この神殿の建設を皮切りに、次々と近隣の土地を買収し、綾部の神苑が造営されて行く。

元屋敷は明治45年(1912年)7月に、本宮山は大正8年(1919年)2月に買収した。

== 主な建造物(戦前) ==
昭和10年の[[第二次大本事件]]までに造られた主な建造物は次の通りである。

* [[元屋敷]]]
* [[竜門館]]]
* [[旧本殿]]]
* [[金明水]]]
* [[銀明水]]]
* [[西石の宮]]]
* [[東石の宮]]]
* [[回金神社]]]
* [[最初の広前]]]
* [[統務閣]]]
* [[金竜殿]]]
* [[教主殿]]]
* [[教祖殿]]]
* [[黄金閣]]](言霊閣)
* [[錦水亭]]]
* [[鉱泉]]]
* [[金竜海]]]
* [[大八洲神社]]]
* [[六合大神社]]]
* [[塩釜神社]]]
* [[冠島神社]]]
* [[沓島神社]]]
* [[玉治神社]]]
* [[金竜神社]]]
* [[三社大神]]]
* [[護国神社]]]
* [[御柱神社]]]
* [[五六七殿]]]
* [[至聖殿]]]
* [[本宮山]]]
* [[綾機神社]]]
* [[穹天閣]]]
* [[みろく亭]]]
* [[工芸館]]]
* [[教碑]]]
* [[神声碑]]]
* [[歌碑 (本宮山)]]]
* [[長生殿]]]
* [[勝景殿]]]
* [[三葉松]]]
* [[洗心亭]]]
* [[掬水荘]]]
* [[王仁閣]]]
* [[神光社]]]

=== 神苑の外 ==
* [[月光閣]]]
* [[新祭殿]]]
* [[奥都城]]]

== 破壊と再建 ==
昭和10年(1935年)12月8日、[[第二次大本事件]]が勃発する。翌11年5月以降、当局によって綾部の神苑は全て破壊された。

土地は大部分が[[出口澄子]]名義だったが、不法に売却され、昭和11年3月20日に綾部町に移転登記された。2万5185坪が3676円22銭(現在の貨幣価値で約700万円前後<ref>「[https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html 日本円貨幣価値計算機]」で計算すると、1936年の3676円は2017年の約623万円(GDP)から約732万円(CPI)に相当する。</ref>)で売却されたが、当時の地価の百分の一にも及ばない不当に安い値段だった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6233|土地の不法処分}}」</ref>

売却後の土地は、[[何鹿郡]]設のグランドとなったが、昭和15年6月に土地返還請求の提訴がなされた。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6421|土地返還請求の提訴}}」</ref>

第二次大戦後、和解によって綾部町から土地が返還されることになり、昭和20年11月15日に土地移転の登記が完了した。無条件での返還だったが、大本側から綾部町に体育館の敷地を寄付し、町からは[[武徳殿]](後に[[彰徳殿]]と改名)と弓場の建物(後に[[要荘]]の一部となる)を寄付することになった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6523|土地返還訴訟の解決}}」</ref>

昭和20年12月8日、綾部の彰徳殿で[[第二次大本事件解決奉告祭]]が執り行われ、今後の大本の方針として「[[愛善苑]]」とう名で新発足することが発表された。また綾部の神苑を「梅松苑」、王仁三郎夫妻が起居する臨川荘を「[[山水荘]]」、武徳殿を「[[彰徳殿]]」と命名したことが発表された。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7121|新生のまつり}}」</ref>

再建にあたっては、まず[[本宮山]](鶴山)の山上で、破壊された[[長生殿]]の基礎の上に「[[月山不二]]」が築かれた(昭和21年6月完成)。その後、彰徳殿に神床を新設(昭和22年2月)、旧弓場を改修して祖霊社を復活(昭和22年4月)など、神苑を整備して行った。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7221|本部と地方のうごき}}」</ref>

== 主な建造物(戦後) ==
第二次大戦後に造られた主な建造物は次の通りである。

* [[彰徳殿]]
* [[要荘]]
* [[山水荘]]
* [[月山不二]]
* [[本宮山]]
* [[神声碑]]
* [[教碑]]
* [[二代教主歌碑]]
* [[機織場]]
* [[長命水]]
* [[鉱泉]]
* [[金竜海]]
* [[塩釜神社]]
* [[冠島神社]]
* [[沓島神社]]
* [[六合大神社]]
* [[大八洲神社]]
* [[つるやま工房]]
* [[春秋荘]]
* [[掬水荘]]
* [[神声館]]
* [[みろく殿]]
* [[金明水]]
* [[銀明水]]
* [[元屋敷]]
* [[紅梅寮]]
* [[若松寮]]
* [[松香館]]
* [[三丹会館]]
* [[緑寿館]]
* [[長生殿]]
* [[遊亀亭]]
* [[鶴山居]]
* [[木の花庵]]
* [[梅松苑碑]]
* [[榎]]
* [[玉水の泉記念碑]]

=== 梅松苑の外 ===
* [[奥都城]]

== 略年表 ==

(作成中)

== 脚注 ==
<references/>

== 関連項目 ==
* [[天恩郷]]:梅松苑と並ぶ[[二大聖地]]の一つ。

== 外部リンク ==
* [http://oomoto.or.jp/wp/seichi/ 大本の聖地](宗教法人大本の公式サイト)

{{デフォルトソート:はいしようえん}}
[[Category:大本の聖地]]
[[Category:大本の施設]]

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