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有悲閣
,'''有悲閣'''(ゆうひかく)は、[[亀岡]]の[[中矢田農園]]の中にあった建物。
[[出口日出麿]]は[[第二次大本事件]]で検挙され当局の暴行によって精神に異常を来した。公判停止となり京大付属病院精神科に入院していたが、昭和14年(1939年)10月27日、退院して自宅で静養することになった。その時住んだ中矢田農園内の住宅が、日出麿によって「有悲閣」と名付けられた。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c6333|出口家の動静}}」</ref>
昭和16年(1941年)5月に再び京大病院に入院し、翌17年4月18日に退院した後は穴太の[[長久館]]に住んだ(その後、但馬の[[竹田]]町に移住)。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6432|中矢田農園}}」</ref>
昭和17年(1942年)8月7日に保釈された[[王仁三郎]]・[[澄子]]夫妻は、当初は有悲閣に住んでいたが、翌18年6月に隣の[[熊野館]]に移り住んだ。<ref name="daisanji_p46">[[出口和明]]『[[第三次大本事件の真相]]』p46-47</ref> <ref name="B195402c6432">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6432|中矢田農園}}」</ref>
有悲閣はその後、出口光平の個人宅となった。
{{デフォルトソート:ゆうひかく}}
[[Category:大本の施設]]
[[出口日出麿]]は[[第二次大本事件]]で検挙され当局の暴行によって精神に異常を来した。公判停止となり京大付属病院精神科に入院していたが、昭和14年(1939年)10月27日、退院して自宅で静養することになった。その時住んだ中矢田農園内の住宅が、日出麿によって「有悲閣」と名付けられた。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c6333|出口家の動静}}」</ref>
昭和16年(1941年)5月に再び京大病院に入院し、翌17年4月18日に退院した後は穴太の[[長久館]]に住んだ(その後、但馬の[[竹田]]町に移住)。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6432|中矢田農園}}」</ref>
昭和17年(1942年)8月7日に保釈された[[王仁三郎]]・[[澄子]]夫妻は、当初は有悲閣に住んでいたが、翌18年6月に隣の[[熊野館]]に移り住んだ。<ref name="daisanji_p46">[[出口和明]]『[[第三次大本事件の真相]]』p46-47</ref> <ref name="B195402c6432">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6432|中矢田農園}}」</ref>
有悲閣はその後、出口光平の個人宅となった。
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[[Category:大本の施設]]